2674年 6月 10日 探訪
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此方しらさぎばしから直線にて三百米弱程下流側、舊山田川に架る橋であります。 御覽の樣に名稱不明なのでありますが、奧に見える現山田川に架る橋は山下橋と云ひますので、若かしますと臺帖場では其舊橋なのかなと最初は思つたのでありますが、 地圖で見ますと此近くの乘合バスの停留場が山田橋と云ひますので、此方がさうなのかも知れません。 さうしますれば、田原街道側が芝原橋だつた可能性が高く成りますし、其方が合點が行くと云ふ物であります。 でありますので、ほぼ間違無く此方は山田橋だらうと云ふ事で、勝手にさうさせて戴きました。呵呵 因に此方、最初は戰前物件かなと思つたのでありますが、航空冩眞で見ますと、昭和卅年迄の幅員と昭和卅六年の幅員とでは違ふ樣に見えますし、 何しろ昭和卅六年の冩眞では初々しい明るさに見えますので、多分でありますが、昭和卅年代前半の物件では無いかと推察致します。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行きます。 |
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名稱不明なのであります。 まあ親柱の意匠は昭和廿年代や卅年代に通ずる、如何にも質實剛健な良き形をして居ります。 |
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上流側は親柱自體が消失して居ります。 全體的な意匠が何處と無く此方、 【河内町白澤 萬年橋】 に似て居りますから、萬年橋同樣、若かしますと此消失した親柱だけに白い銘板が附てゐたのかも知れません。 さう致しますと、昭和廿年代末から卅年代初頭の架橋と云ふ事でありますかね。 |
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さうでありますと、高欄の中央部に柱をあしらつた意匠にも合點が行くのであります。 |
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橋上から眺める上流側は斯う云ふ具合であります。 何處が本流なのか分りませんので、迂闊に降りられませんでした。 |
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下流側は斯うであります。 正面に橙色をした、多分水門のハンドルだと思ふ物が見えて居りますが、其處に近寄る事自體怖く無いのかなと思つて仕舞ます。 其に、轍が在るのが流石と云ひますか、地元の方ならではでありますね。 では右岸側へ移動致します。 |
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ん、多分此方は補修されて居りますね。 混凝土の質が現代的な感じでありますから。 |
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ほら、此方下流側を見ますと型枠の跡が結構はつきりとして居りますし、川砂利と云ふのか玉砂利と云ふのか、使用されてゐる物は結構細い物なのかなと思ひます。 不取敢、碎石は使用されてゐ無いのかなと思ひます。 |
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もう桁とか橋臺とか、さう云ふ問題ぢや無い氣がして居りますが、先づ間違無く上記の萬年橋と同樣の形式を踏襲してゐると思はれます。 不取敢、山田川として現役の頃には橋の幅一杯に川が流れてゐた樣であります。 でありますから餘計に近附の躊躇してゐるのでありますが、探訪時、ざあざあと結構激しく流れてゐる音がしてゐた物でありますから、まあ、 如何云ふ結果を心配してゐたのか御察し下さい。 |
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辛うじて分りさうなのは此冩眞でせうか。 頑丈さうな立派な橋臺かと思ひます。 が、何か逆に親柱の小ささが際立つてゐる樣に見え無くも無い感じでありますかね。 |
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でも一箇所、面白いのが、完成後に隙間が廣い事に氣附たのでせうか、其共後年の補修ででせうか、
何か後から高欄と親柱の隙間を塞がうとしてゐるのが微笑ましいなと思ひました。 其に、親柱上の丸みを附た意匠も手作業らしくて素敵であります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |