河内町白澤 萬年橋

2673年 6月 17日 探訪

 西鬼怒川の橋を見終へ、近くの大型荒物屋へ買ひ物に向はうと思ひ白澤の宿の南端に近附た處、ふと古風な橋が目に飛込んで來ました。
之は是非共きちんと見て措か無いと勿體無いと思ひ、しつかりと寫眞に收めて來ました。

 ちやんと見ますと結構工夫して架橋されてゐると云ふ事が分り、流石昔からの宿場町だなあと改て感心した次第であります。

 因に此方、九郷半用水と云はれる用水の一部だと思ふのでありますが、現在では其本流では無く成つてゐる樣であります。
 新柱の大きさは高根澤町界隈の江沼川や太田堀の橋と似通つて居りますかね。
高欄は其依りも古風な感じでありますので、も少し古く昭和廿年代頃、と云ふ處でせうか。

 併し當時は曲線を描く架橋技術が無かつたからなのでせうか、桁と高欄と云ふか、道端の部分の荷重の掛から無い部分の載方や、 左岸側の桁と右岸側の桁の置く位置の違ひ等、結構面白い部分が見て取れます。

 何と云ひますか、新柱の置方が、飽迄も手前の道路に對して正體する樣な感じでありますし、飽迄も正方形に拘つてゐると云ふ點で見事であります。

 では右岸側から見て行きます。
 併し此惡線形振り、手前の親柱の下部が補修されてゐるのも頷けます。

 之つて多分、幾ら曲り易い樣に橋の架け方を工夫しても、矢張自動車が曲る時に引掛て仕舞ひ、根元から折曲げたと云ふ處でせうね。
 併し此角度、何でせう、道路に對して正面を向くと云ふ依りは、河川に對して平行と云ふか直交する具合に置く、と云ふのが親柱の建方の基本なのでせうか。

 併し右岸側には銘板が無くて殘念であります。
 して、橋の袂からガアドレイルが伸びてゐるのでありますが、此方に道が在つたと云ふ痕跡は在りません。

 と云ひますか、古い航空寫眞を見ますと、先づ橋を渡らず用水添ひに眞直ぐ行く畦道の樣な道が在つた樣でありますが、區畫整理と云ふのか圃場整備と云ふのか、 其で消失した樣であります。

 其と、此冩眞でご覽の樣に、直ぐ傍には其に伴ひ新道が出來たのでありますが、だからと云つて此處からそちらに接續する、と云ふ事でも無い樣でありますので、 此ガアドレイル自體、消失した道に新入し無い樣に塞ぐ爲に設置された物の樣な感じであります。
多分。
 さう云ふ譯で、何とか正面から撮つて見ました。
下流側は眞直で、上流側の右岸側の桁を何とか廣げる事で、交通の流れを滑らかにし度かつたと云ふ工夫の痕が伺へます。

 其と、きつと元々は混凝土路盤の儘だつたのだらうと思はれます。

 併し哀れ、本來は渡河した先に西鬼怒川迄續く道が在つた樣でありますが、現在は矢張り消失してゐる樣であります。

 區畫整理、若しくは圃場整備つて凄いであります。

 では左岸側へ移動致します。
 萬年橋。
昭和二十八年五月竣工。

 をゝ、何と、最初は無名橋だと思つてゐたのでありますが、此方左岸下流側に一つだけ銘板が在りました。

 唯、何と無く親柱、高欄共に混凝土が綺麗でありますので、多分補修若しくは作り直されてゐるのでは無いかと推察致します。

 其と、矢張親柱の角度が凄いと云ふ感じでありますね。

 併し用水も大幅に改修されて仕舞つたものでありますから、橋の直後に急角度で曲つてゐるわ川幅も極端に狹く成つてゐるわで、 之は一體何と云つて良いのでせう、と云ふ感じであります、實際。
 斯うして見ますと、斜に架るのは色々と制約の中で隨分頑張つての結果だつたのかなあと思ひました。

 が、改て竣功後からの航空冩眞を見てみますと、如何やら最初の頃は眞直ぐだつた樣であります。
其が、昭和四三年から四九年迄の間に斯う云ふ具合に改修された樣でありまして、彼の右岸側の桁は斜めに増築された部分の樣であります。

 成程、ならば橋脚部分で左岸側の桁の位置と不一致なのも頷けます。

 併し新しい道は目と鼻の先でありますのにアレなのは、色々とアレなのでせうね。
 横から見ますと二徑間の立派な橋なのでありますが、直後で今や急激に川幅が細く成つてゐると云ふのが中々にアレな感じであります。

 まあ、桁的には此方、RCのT字桁邊りでありますかね、多分。

 橋脚や高欄は如何にも昭和廿年代と云ふ感じで素敵であります。

 併し斯うして下流側を見てから改て上流側の附足部分を見てみますと、實は結構違和感無く成る樣に作られてゐると云ひますか、年代的に鐵桁に成つてゐても不思議では無いのに混凝土作りに拘つたと云ふのは、 一應景觀に配慮した、と云ふ事なのでありますかね。

 思はず最初は騙されましたから、さう云ふ點では成功だつたと思はれます。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る