鹽谷町船生 西古屋橋

2675年 11月 17日 探訪

 此方は 【鹽谷町船生 白石橋】 依り二キロ程白石川を上つて來た處に架る橋であります。

 もう既に手荒く壞れて居り、一見すると廢橋に成つてゐても不思議では無い感じでありますが、自動車の轍が未だ有る事から、之でも現役でせうし、 之でも何の問題も無いと云ふ事なのでせう。

 と云ふ事で、不取敢此方右岸側から見て行きます。
 殘念乍銘板は附て居りませんでした。
元々附る豫定の處に附無かつたのか、其共外されたのかは不明でありますが、此感じでありますと後年に成つてから外されたと云ふ感じでありますかね。

 まあ、竊盜では無い事を願ふ許であります。
 右側が一番問題の箇所でありますが、親柱は疎か高欄も數米に亙り消失して居ります。

 まあ、何かしら柱でも立てて紐を張つて注意喚起してゐた樣でありますが、其も今では外れて仕舞つて居ります。
 何故かと云ひますと、平成廿七年九月の臺風十八號での被害で、右岸側橋臺附近の地面が手荒く流出して仕舞つてゐるからであります。
でもまあ、良く路盤部分は殘つたなと思ひますし、人的被害が無かつたのが幸ひでありました。

 併し消失してゐると思つた高欄、辛うじて鐵筋が繋つてゐるのでせう、逆さまに成り乍も殘つてゐるのに驚きました。

 して、尖頭型の橋脚でありますのが感動的であります。

 まさかの戰前物件なのでせうか。

 其では左岸側へ移動致します。
 此方側にも銘板は殘つて居りませんでした。

 して、何故に橋名が分つたかと云ひますと、恆例の鹽谷町橋梁長壽命化修繕計畫であります。
上記の白石橋も有する町道船場西古屋線なのでありますが、正直、拙には其路線が何處を如何通つてゐるのか、此近邊では何共云へ無かつたのでありますが、 此西古屋で橋長十四米程の物件、且つ昭和卅年の竣功と云へるのは此處しか無いだらうと思つたからであります。

 實際、昭和廿年代の航空冩眞を見ても、此近邊で白石橋から續く道で橋が架つてゐるのは此處に見えますし、斯樣に親柱に銘板が附られてゐた樣だと成りますと、 其で間違無いだらうと思つたからであります。
 此方上流側は親柱が消失して居ります。

 思ふに曲線の内側に成る部分が兩岸で其々破損して居りますから、若かしますと西古屋ダムを建設するに當り此處を大型貨物車が通る樣に成つた爲、 其等が打當つて破損して仕舞つたと云ふ事なのでは無いでせうか。

 だと致しましても、早々に直せば良いのに其儘つて、何れだけ交通量少いのかつて事でありますかね。
 上流側から見ますと、竣功當時の姿が分るでせうか。
尖頭型の橋脚も持つ、二徑間の混凝土T字桁橋であります。

 して、高欄は鐵管を二本使ひ、其々の桁で獨立してゐる意匠でありますね。

 併し疑問でありますが、昭和卅年竣功の橋にしましては、何故に尖頭型の橋脚なのでせう。

 思ひますに、航空冩眞では位置、幅員共に舊橋から變化が無い樣に見えますので、若かしますと橋臺、橋脚は其儘に、桁だけ混凝土製に交換し度のが昭和卅年と云ふ事なのでは無いでせうか。

 何故にさうし度のか、其は先代橋の老朽化若くはダム建設計畫に因り大型車の通行を考慮しての事だつたのでは無いかと推察した次第でありますが、實際の處は如何なのでありますかね。呵呵

 以上、御附合有難う御坐いました。

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