鹽原町中鹽原 千古橋

2677年 6月 20日 探訪

 此方は栃木縣道二六六號線、通稱鹽那道路の鹽原側入口に在る木ノ葉化石園の敷地内、精進川に架る橋であります。

 先づは其傍の縣道の橋を冩してゐる時に此方の存在に氣附まして、橋脚を見て歴史的物件だな判斷し冩眞に收めたのでありますが、正直、右岸側からしか冩して居りません。
何故なら、此橋の爲だけに入場料を拂ふのも如何かなと思つたのと、丁度小國民達が見學に來て居りましたので、長靴履いて冩眞機持つた不審者が云々と思はれるのも嫌でありましたので、 入口から見える範圍で冩しただけであります。

 其點は切符賣場の人と話し濟みでありますし、まあ、要は單に拙がケチなだけなのでありますがね。呵呵

 と云ふ譯で此方の橋でありますが、控柱を備へ、如何にも橋らしい橋と云ふ感じの堂々とした物であります。
多分後年に成り整備されて塗替られてゐるとは思ひますが、橋名を省れる事無く表記してゐる邊、素晴しい事であります。

 して、千古と云ふ命名は太古からの化石が採掘されるからと云ふ所以からなのでせうか。
 上流側から見ますと、尖頭型の橋脚を持つ二徑間の橋であります。

 して、多分間違無くT事桁の混凝土橋でせう。

 此雰圍氣からしまして、 【茂木町入郷 鹽澤橋】 に近い物を感じますし、昭和廿二年の航空冩眞でも其姿を確認出來ますので、先づ間違無く戰前物件だらうと推察致します。
 下流側から見ても尖頭型をして居りました。
と云ふ事は、上記の鹽澤橋依りも若干竣功年は古いでありますかね。

 因に木の葉化石園でありますが、明治卅八年開園と手荒く歴史の在る施設であります。
其に、園名で畫像檢索致しますと、木橋時代の當園の繪葉書が出て來ますので、一見の價値は在ると思ひます。

 まあ、開園時期から考へますと、明治大正時代と木橋で過し、昭和初期に混凝土永久橋へと架替られたと考へるのが賢明だと思ふのであります。

 さう云ふ譯で、此方も化石同樣に歴史的物件として大切にして欲しいなと思へる物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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