2682年 5月 2日 探訪
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當然右に進みます。 |
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此方は
【鹽原町關谷 舊猿岩橋跡】
依り四百五十米程國道四百號舊道、舊々道を北上した處、境澤に架る橋であります。 まあぱつと見、 【鹽原町關谷 舊石安土橋】 と同樣の姿でありますので肝心の色々は不明でせうが、先づ間違無く結構な年代の物件と思はれますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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曾て親柱が在つたであらう痕跡は御坐いました。 |
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同上。 高欄は特筆する事が御坐いませんので、右岸側へ移動致します。 |
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此方にも親柱の痕跡は御坐いました。 |
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同上。 |
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横から見ました處、如何にも戰前橋らしい混凝土T字桁橋でありました。 |
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左岸側からの眺めでありますが、橋臺の梁部、如何にも戰前らしい主桁の姿等、手荒く美しいであります。 親柱と高欄が生きてゐたら完璧でありましたのに、ね。 因に竣功年でありますが、當然の樣に何處にも資料が見當りませんし、昭和廿二年の航空冩眞では當然其姿を確認出來ますので、 前後の橋や鹽原觀光開發に因るでせう日鹽道路の橋の竣功年等を考慮致しますと、先づ間違無く昭和十年前後頃迄なのでは無いでせうか。 |
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併し、左岸側へ戻る時に橋の中央部で上流側を見ましたら、御覽の樣に先々代橋の橋臺と思しき物が殘つてゐるでは御坐いませんか。 |
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と云ふ事で、更に奧へ進みます。 |
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して、此方が先々代橋跡と思しき所の左岸側からの眺めでありますが、何か素敵な痕跡は御坐いますでせうか。 |
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親柱の痕跡は、無いでありますね。 |
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此方も。 |
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梁部でありますが、左手の混凝土は橋跡とは何か違ふ樣な氣が致します。 |
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斯うして右岸側橋臺を見ますと、梁部の上に新に石を積んだのが分りますので、觀光地化の爲敢て斯うしたと見るべきでせう。 と云ふ事で、右岸側へ移動致します。 |
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左岸側もさう云ふ跡を感じます。 が、併し、隨分と良い状態の儘兩岸共に殘つてゐると思ひます。 |
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此方は右岸側橋臺であります。 |
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今渡つてゐる舊境橋が多分に昭和十年前後頃迄の物でせうから、此方はもつと、相當の年代、例へば大正や明治期の物の筈、でありますよね。 多分。 |
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等と考へつゝ左岸側へ戻つて來ましたら、更に奧に行く踏跡が在るのでありますが。 |
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其終點迄來ました。 |
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道、でありますね。 先づ間違無く此處で渡河してゐたのでは無いでせうか。 では右岸側へ移動致します。 あ、今思へば拙は常に長靴でありますで、此處で渡河して見ても良かつた、否、安全第一でありますね。呵呵 |
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で以て、橋らしい痕跡は何も感じませんでした。 |
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唯、斯うして見ますと明かに道、であります。 さう成ると、此方は明治初期とか江戸時代頃からの道跡の可能性が無きにしも非ず、と云つた處でせうか。 |
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して、四代に亙る橋の變遷が分る譯であります。 |
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では戻ります。 |
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此落石防止網の内側の石積、空石積でありますから矢張相當の年代物かと思ひます。 |
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思へば昭和四七年竣功の現在の境橋袂、舊線形の他に何故自動車が縱に駐車出來る廣場が在るのかと不思議だつたのでありますが、如何やら此方が舊々線形だつた樣であります。 |
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斯うして舊道化した御蔭でゆつくりと見に來られた譯でありますが、まさか此處迄濃い發見が出來るとは露も思ひませんでした。 實に充實した探訪で、手荒く滿足でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |