2677年 12月 18日 探訪
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此方は小貝川の支流の用水に架る、栃木縣道四五號線の舊道部分の橋であります。 さうでありますね、近くの物件で云ひますと、 【二宮町鹿-物井 穴川橋】 から二キロ程東側に位置すると云ふ處でせうか。 扨、ぱつと見に流石舊街道と云ふべき其也の幅員でありますし、中々にモダアンな意匠から、多分に可也の年代物と思へますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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用水。 成程、さう來ましたか。 中々にハイカラ且つモダアンな意匠の笠石に洗出仕上の表面、多分後年、きつと昭和四十年前後頃に成つてから附られたであらう多分琺瑯引の銘板から、 元から附てゐた銘板は物資供出に因り消失してゐたのでは無いかと推察致しますので、多分此方、戰前物件なのでは無いでせうか。 其にしましても、隨分と下の方に銘板が附て居りますね。 |
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高・・・嗚呼ほら、表面が錆落ちて一文字目以外判讀不可能に成つて居りますよ。 之だから此銘板餘好きでは無いのでありりますよ、拙。 |
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高欄は中央に柱部分を備へる意匠であります。 全體的に"圓"を意識した意匠としてゐるのでありますかね。 流石街道筋、可也御洒落な雰圍氣であります。 では左岸側へ移動致します。 |
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用水。 笠石は取れて消失して居りますが、元からの銘板の位置や大きさ等、或る意味一番竣功當時の樣子を殘してゐるかも知れません。 と云ふ事で、結構路盤等に舖裝が盛られてゐると云ふ事が分ります。 |
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高田橋。 國土地理院の地圖を見ますと、如何やら橋名は地名から附られてゐる樣であります。 併し此處、御寺が四つ程集中して建立してゐるのでありますが、何か歴史的地域なのでせうか。 |
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横から見ました處、之は混凝土T字桁でありますね。 |
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して、丁度川牀に下りられる處が御坐いましたので其處から底を見てみたのでありますが、成程、内側の主桁は如何にも戰前物件、
新しくても昭和廿年代迄主流だつた形式でありました。 で以て、此方も横桁は入つて居りませんね。 以上の樣な特徴から、多分に昭和十年代物件と見て間違は無いのでは無いでせうか。 唯、殘念な事に航空冩眞では當然の樣に昭和廿一年以降の姿しか確認出來ませんし、各種資料にも縣道指定を外れたからか何の記載も發見出來ませんでしたので、 正確な事が分ら無いのが殘念であります。 まあ、其でも素敵な姿には變りは御坐いませんし、良い物が見られたと云ふ感じで滿足でありました。 して、出來る限り此姿を留めてゐて欲しいなと云ふ感じであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |