2677年 11月 21日 探訪
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此方は
【眞岡市荒町 妹内橋】
依り四キロ程五行川を下つた處に架る、栃木縣道一八七號線の橋であります。 先づ最初、ストリイトビウで見たら今時の橋と云ふ感じでありましたが、航空冩眞で良く見ますと、川幅に對して橋脚が多く、之は結構年代物に違ひ無いと思ひ、今囘の訪問と相成ました。 と云ふ事でありますので、ぱつと見には御覽の通り今時の高欄の今時の橋と云ふ感じでありますが、其處は其、親柱が如何にも古さうなのと、歩道部分が無いと云ふ事からも、 實は年代物に違ひ無いと云ふ雰圍氣がしつかりと致します。 と云ふ事で、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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高畦橋。 如何して斯くもガアドレイルを親柱にぴつたりと附るかなと思ふのでありますが、餘程此隙間から轉落する人居るのでせうか。 して、まあ、何とか隙間から覗いて橋名が確認出來たのであります。 親柱の意匠は別段取上る感じでは無い感じであります。 |
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五行川。 規格物の字體と思ひますが、「五」の字體が中々に素敵であります。 |
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排水桝は結構な大きさであります。 では左岸川側へ移動致します。 |
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高畦橋。 併し右岸側もさうだつたのでありますが、親柱に自動車が車體を擦つた樣な痕が在りますので、車道としましては、若かしますと若干狹いのかも知れません。 |
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五行川。 緩衝裝置の部分に迄舖裝が盛られてゐると云ふ邊が年代物を想起させて呉れます。 |
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高欄は昭和四十年代末期と云ふか、昭和五十年前後以降主流だつた型、と云ふ感じであります。 多分、之は元々のでは無く、後年に成つてから斯樣な物に交換され度のでせう。 多分。 |
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横に工事銘板を發見セリ。 成程、昭和四四年四月竣功でありますか。 何か、「4」が四つも竝ぶ何て凄いでありますね。 と云ひますか、何故に三月竣功にし無かつたのでせうか。 |
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して、横から見た時が此橋の見所なのであります。 先程の工事銘板は左岸側鐵桁部分に附てゐたのでありますが、えゝ、其だけでありましたら納得なのでありますが、中央部分の二徑間が何故に混凝土桁なのかが不思議であります。 |
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見事に美しい混凝土T字桁でありますが、之つて昭和卅年代の物なのでは無いかなと思ふのであります。 |
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ほら、御覽の樣に鈑橋部分は如何にも後から附足したと云はん許の樣な作り方でありますからね。 |
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其にほら、橋脚と橋臺の型枠の跡が違ひ過ぎると思ふのであります。 橋脚側、特に前後の曲面部分の細さは如何考へても昭和卅年代半ば迄の方法でせう。 でありますから、橋臺側は其處迄の細さでは無く、もつと大きい型枠を使つてゐる跡に成つてゐるのであります。 して、航空冩眞を見乍想像して見たのでありますが、昭和卅六年の冩眞では、未だ新造された許の橋が冩つて居ります。 其後、昭和四四年に河川も擴幅されて現在の姿に成つてゐるのでありますが、橋字體の幅員が變つてゐ無い樣に見えるのであります。 と云ふ事はですね、若かして中央部分の二徑間は竣功後十年未滿、若くは十年程度でありますので全て新造するのは勿體無いと云ふ事で、 兩眼部分だけを昭和四四年に新に作り直しただけなのでは無いでせうか。 さうしますれば、鐵桁部分だけ徑間が長いのも納得出來ますし、橋脚の工法が年代を感じさせるのも納得なのであります。 昭和五十年の航空冩眞を見ますと、其々の桁で高欄、若しくは地覆部分が確實に違ふと云ふのが分りますから。 とは云へ、確實な資料が無いので何共云へませんが、斯う云ふ面白い物件は出來る限り殘つてゐて欲しいなと思ひました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |