二宮町物井 白金橋

2677年 12月 12日 探訪

 此方は 【二宮町物井 報徳橋】 依り一キロ程穴川を下つた處に架る橋であります。

 ぱつと見に昭和廿年代から卅年代前半の橋に見え無くも無いでありますが、 【今市市室瀬-吉澤 荒神橋】 の事例も御坐いますし、何依りも其荒神橋に似てゐる事からも、若かすると可也の確率で戰前物件かも知れませんが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。
 穴川。

 其質實剛健な姿の親柱に、混凝土の銘板部分へ直に彫られた文字、良い雰圍氣であります。

 良く見ますと、親柱と銘板部分では混凝土の質が違ふでせうか。
 白金橋。

 さうして、其字體も又、楷書とは云へ味はい深い感じであります。
 高欄は中央に柱を配してゐる以外は、正に上記の荒神橋の物とほぼ同一の意匠であります。

 では左岸側へ移動致します。
 あなかは。

 をゝ、正假名遣ひ良いでありますね。

 因に、文字を良く見ようと接冩した冩眞を見ました處、銘板部分は洗出仕上に成つて居りました。

 中々に澁い作込かと思ひます。
 此處の文字の判讀が難しかつたであります。

 光が強く、良く讀めませんでしたので接冩したのでありますが、「しらかねはし」なのか「しろかねはし」なのか判斷に惱む結果でありました。

 まあ、讀み等本來は如何でも良い、と云つて仕舞へば語弊が有るかも知れませんが、意味が通じれば何方でも良いだらうと云ふのが廿一世紀に入つてからの拙の見解であります。呵呵
 横から見ました處、如何にも戰前型と云ふ感じの混凝土T度桁であります。
其と同時に、橋臺も戰前物件と云ふ造でありますね。

 扨、では竣功年なのでありますが、之が何處にも分る資料が發見不出來、本當の處は分りませんでした。

 但し之は如何見ても戰前の造りでありますし、航空冩眞で見ましても、昭和廿二年の冩眞と、其以降の冩眞でも不變の儘に見えますので、先づ間違無く戰前物件で確定だらうと思はれます。

 其に、如何見ても上記の荒神橋と似てゐる事からも、昭和十年前後の頃に架橋されたと見て間違無いと推察する次第であります。

 斯う云ふ土肥にでも在りさうな戰前物件、而も現役物件に出會へたのは良かつたであります。
出來れば此儘末永く殘つてゐて欲しいなと思へる物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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