2681年 4月 19日 探訪
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此方は
【那須町湯元 近光橋】
依り八百米程湯川を上つた所に架る橋であります。 高欄は更新されて居りますが、一見して昭和四十年代の樣な感じでありますが其實如何でせうか。 と云ふ事で此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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湯川。 明かに近光橋とは違ふ痛み具合の銘板でありますが、之は硫化水素に因る物でせうか。 親柱、平板なだけでは無く、銘板が附處は斜に成り、正面からも幾分見易い樣な意匠に成つて居ります。 尤も、此痛み具合では讀辛いでありますが。 |
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三井橋。 最初は字名、若くは觀光開發に伴ふ某建設會社からの命名かと思つたのでありますが、航空冩眞や古地圖を頼りに致しますと、戰前から此處に架橋されてゐる樣でありますので、 如何云つた由來なのかは不明であります。 |
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高欄と地覆は後年に成つてから更新された物でせうが、其でも可也塗裝に痛みが見られますので、硫化水素に因る影響が多いのでせう。 では、右岸側へ移動致します。 |
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湯川。 兩岸で對稱配置の銘板は昭和卅年代後半以降の特徴でありますね。 |
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三井橋。 其にしましても緑青の吹具合が凄いであります。 |
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横から見ました處、鈑橋でありました。 と云ひますか、何か石積の橋臺の樣な物が見えるのでありますが。 因に、此現在の橋の竣功年は昭和四三年でありました。 |
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扠、では舊橋跡を良く見てみませう。 最初は橋臺と思つたのでありますが、良く見ますと護岸側迄石積に成つて居りますし、全體の形も舟形と云ふ感じであります。 其に現在の橋臺迄の部分の混凝土は後年の竣功に見えます。 其と、此方左岸側橋脚の中央部には鐵筋が見えますので、此方が基礎的な部分で、此上に混凝土製の橋脚でも附てゐたのでせうか。 若くは |
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右岸側からも見てみましたが、此方は一寸見辛かつたであります。 扠、舊橋の竣功年でありますが、古地圖を頼りに致しますと、明治末期以降昭和初期頃迄の樣であります。 して、全體に石積でありますので、混凝土製永久橋が出囘る前でせうから、多分明治末期か大正初期頃なのでは無いでせうか。 さうして、最初は木橋だつた物を途中で混凝土桁、橋脚に交換し度とかの樣な氣がし無いでも無いであります。 唯、何と無く 【日光市萩垣面-所野 名稱不明廢橋】 に似た雰圍氣も感じますので、ずうつと木橋だつた物から現在の物に架替た樣に思へ無くも無いでありますが。 まあ、何れにしましても、普通の鈑橋だけだと思つてゐた處に、思はぬ歴史的遺稿が殘つてゐたと云ふ事が分り、今囘見られて手荒く滿足でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |