益子町塙-益子 塙橋

2678年 1月 9日 探訪

 此方は 【益子町東田井-上山 徒士橋】 依り二キロ半程小貝川を上つた處に架る、國道一二一號の橋であります。

 ぱつと見には新しい雰圍氣の橋なのでありますが、横から見ますと如何にもさうでは無い、何方かと云ふと古物件の樣な雰圍氣が漂ふ橋でありましたので、 以前に來た時から少し調べました處、矢張色々と變遷の有る橋でありました。

 其の證據に、冩眞で白い自動車が來る、多分上車線だと思ふのでありますが、中央線近くに繼足された痕跡が御坐います。

 と云ふ事で、何處迄詳く見られるか、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。
 小貝川。

 此方竣功は昭和四三年と成つてゐるのでありますが、側道橋、歩道側が昭和五三年に附足されて居ります。
でありますので、多分銘板は其當時の物を流用してゐるのでせうが、親柱は昭和五三年に現在の物に作り直されてゐるのだらうと推察致します。

 でありますので、現在架橋された當時の銘板や親柱は一切確認出來無いと云ふ事であります。

 其共、此銘板は本當の架橋當時の物なのでせうか。
 塙橋。

 親柱も銘板も完全に新しい物に成つて居ります。

 と云ひますか、元々は直線で架橋されてゐた物が、平成五年から十年頃の間に現在の樣な線形に改修された樣であります。

 まあ多分、元からの親柱は自動車が打當つて壞れて仕舞、結構早い段階で消失してゐたのでは無いでせうか。
 其擴幅部分であります。

 牀版を外側へ附足す樣にして線形を改良してゐるのでありますね。
 横から見ますと、さう、此方の橋の最大の特徴なのでありますが、右岸側二徑間が混凝土T字桁、左岸側二徑間が鈑橋なのであります。

 之を全て昭和四三年竣功で片附て良いとは思へませんよね、 【二宮町大和田-横田 高畦橋】 の樣に。
 歩道橋側から見ると橋脚の違ひが歴然であります。

 如何見ても、此方右岸側はもつと以前に架橋された物だらうと思つて仕舞ます。
 排水桝は全て此方の物に成つて居りました。

 では左岸側へ移動致します。
 小貝川。

 多分此方が唯一の昭和四三年竣功時の原型を留めてゐる親柱かと思はれます。

 基本的な意匠は昭和卅年代竣功の頃の物を繼承してゐるのでせうか。
 塙端。

 造の「高」が變字體に成つて居りますのは、昭和卅年代から四十年代の流行でせうか。
 併しまあ、見れば見る程に不思議な状態なのでありますが、一つ一つ紐解いて行きますと、先づ現在は地圖で見ますと塙-益子間に架橋されてゐる樣に成つて居りますが、 端名が示す通り、元々は左岸側も塙地區内で収まつてゐた樣であります。

 して、昭和卅五年の航空冩眞を見ますと架橋された許の樣な姿を確認出來ますので、多分に上記の徒士橋と同時期、昭和卅三年頃に舊橋から架替られてゐるのだらうと推察致します。

 其が昭和四十年代に入り、河川改修にて川幅も其迄の倍程の擴幅された折、未だ架橋後十年程度の橋を全面的に架替するのは勿體無いと成り、右岸側一徑間だけ撤去し、 鈑橋にて二徑間を新造して現在の橋長に成つたのでは無いでせうか。
其後交通量の増加と共に右岸側の惡線形を改善する爲に牀版を附足したのが平成五年から十年頃の間で、現在の姿に成ると云ふのが此方の經緯なのでは無いかと推察するのであります。

 出來れば右岸側の桁を下から見たいのでありますがね、如何にも近附のが難しさうでありますので、其だけが殘念でありました。

 まあ、思つた異常に歴史的經緯を内包してゐる樣でありましたので、きちんと見る事が出來て良かつたであります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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