黒磯市橋本町-那須町高久甲 晩翠橋 【二】

2679年 11月 12日 探訪

 扨、 【黒磯市本號町、橋本町-那須町高久甲 晩翠橋 【一】】 の續きであります。

 五代目晩翠橋の上から眺めて七十米程上流の右岸側、橋臺は殘つて居りました。

 五代目依り隨分と低い位置に架橋されてゐた樣でありますが、地の利と技術、利便性の妥協點を考慮すれば妥當な位置なのでせう、突出具合も納得であります。
 橋脚跡も一應殘つて居りました。

 自動車に注意し乍撮りましたので畫面左上の方に成つて居りますが、斜に成つた四角い構造物が御分り戴けるでせうか。
 左岸側は草木が生茂り不明でありますが、實際に御坐いますのは矢張畫面左手の方、電信柱が二本竝んで建つてゐる邊であります。

 と云ふ事で、右岸側から見て行き度いと思ひます。
 扨、では橋臺に向ふ處へ遣つて來ました。

 基本的に陸羽街道整備の一環として架橋された三代目、四代目の跡だと思ふのでありますが、二代目から利用されてゐる位置なのか迄は調べて居りません。

 と云ふ感じで此方が陸羽街道であります。
上に冩眞で左岸側の電信柱の位置が橋臺と記しましたが、此方側も同樣に電信柱が建つて居りました。

 元の道筋に電信柱は建つてゐると云ふ定石通りであります。

 因に五代目との高低差的でありますが、二階建の家一軒分は違ふ感じであります。
 しつかりとした車止が附た上に金網で閉鎖されて居ります。
まあ晩翠橋自體でも時々アレでありますので、此方も念の爲に、と云ふ處でせうか。

 舖裝されて居りますのは地盤を守る爲でせうか。
其共、幹線道路と云ふ事で舖裝されてゐたのでありますかね。
 上流側から見て行きますが、高欄の柱の跡が殘つて居りました。
 親柱と思しき跡も御坐います。

 高欄の柱の跡はきちんと混凝土で埋られて居りますのに、何故親柱の跡は其儘なのでせう。

 若かして結構後年迄親柱若くは其殘骸が殘つてゐたのでせうか。
 下流側には何と、混凝土の柱の殘骸が二つ程殘つて居りました。

 素直に信じれば當時物でありますが、若かして五代目の架橋後に轉落防止で設けられた柵の跡かも知れません。

 まあ何れにしましても歴史的遺構だとは思ひます。
 勿論親柱と思しき跡も健在であります。
 川牀には石造の橋脚跡が僅かに殘つて居ります。

 航空冩眞では昭和五七年迄はしつかりと橋脚が其儘殘つてゐたのが冩つて居りますし、黒磯出身の方に聞きました處、如何やら可也後年迄殘つてゐた樣でありますので、 若かしますと餘笹川を始めとする一連の那須水害の頃に撤去されたのでは無いかと推察する次第であります。
 左岸側の橋臺は矢張此位置でも確認出來ません。

 併し電線で元の橋の位置が分ると云ふのもまあ、色々と大人の事情が垣間見られてアレであります。
 不取敢下から右岸側橋臺を見て行きます。

 確實に三代目、四代目は此方の橋臺を使用してゐたと思はれますので、新しく見て明治四一年頃建造。
二代目からと致しますと明治廿七年頃、初代からと致しますと明治十七年頃建造でありますので、見事な歴史的遺産でありますね。

 だつて、さう致しますと十九世紀物件でありますもの。
 一寸時期が惡かつたでありますが、ぱつと見に痛みは無く、手荒く良い状態で現存してゐる樣に見えます。
 此處に木造上路連續トラス橋が架つてゐたと云ふのは歴史的浪漫を感じます。

 若初代も此處だと致しますと、四徑間の木造方丈橋でありますから其も壓卷だつた事でせう。

 では左岸側へ移動致します。
 橋臺が在つた位置へ來ました。
結構な藪でありましたので足元の確認が無理だと思ひ之以上進みませんでしたが、奧に金網が在りますし、航空冩眞を見ますと昭和五十年でも其らしき構造物は確認出來ますので、 未だ橋臺は現存してゐる物と思はれます。
 渡河して直に曲ると云ふ線形でありますが、之、明治時代と考へますと曲率は可也緩かな方では無いでせうか。

 流石陸羽街道と云ふ感じであります。
 さうして現道へと戻るのでありますが、幅員も十分に御坐います。

 電信柱の存在が、新道との歴史的な格の違ひを見せ附てゐる樣に思へて仕舞ました。
 扨、一通り見ましたので、殘りは設置された案内板を紹介し度いと思ひます。

 此方は五代目の右岸下流側、展望臺と云ふか觀覽臺の樣な處に設置されてゐる物であります。

 建造時や最近の改修前の姿が樂しめます。
 此方は先代の橋臺袂から河川敷に下り、五代目の若干下流側、さうでありますね、先程の觀覽臺の下邊に設置されてゐる物であります。

 歴代の姿が見られると云ふ素晴しい物であります。

 冩眞で見ても分る通り、橋脚は尖頭型では無いので、多分二代目の時に建造された物なのでせうね。
 此方は其隣に設置されてゐる物で、五代目の建造時と竣功當初の姿が見られます。

 斯うして見ますと、元の銘板の大きさに納得出來ますし、右岸下流側親柱の内側には、多分施行業者の銘板が附てゐて、現在は消失してゐると云ふのが分ります。

 今迄有名物件だからと見無いで居りましたし、觀光地的に成つてゐるのも何かアレだなと思つてゐたのでありますが、實際に見たら納得の物件でありました。
出來れば先代の橋脚も現存した儘でありましたら尚良かつたのでせうが、治水面で見れば仕方無い事だつたのかも知れません。

 まあ、手荒く素晴しい物がみられて大滿足でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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