2678年 3月 13日 探訪
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此方は栃木縣道廿七號線等の片田交叉點から北上する事約一キロ、其から少し左側に入つた處で立澤に架る橋であります。 ぱつと見には如何にも古、戰前物件の樣にも見えますが、昭和廿、卅年代の橋でも斯樣に混凝土に直に文字が刻んで有る物件が御坐いますので、其實如何でせうか。 不取敢此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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きようつかはし。 ち、しつかりと小文字が遣はれてゐて些か殘念、否、現代假名でも有るので、之で戰後物件だと云ふ事は確定であります。 と云ひますか、橋臺側に親柱は無い樣であります。 |
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立沢川。 川の名前を調べる地圖では單に立澤と成つて居りましたが、此方の橋の年代では「川」を搗た呼稱の樣であります。 |
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高欄は
【宇都宮市駒生町 鎧川橋】
の樣な、如何にも上記の年代と思しき意匠であります。 面白いのは、地覆が親柱に當る部分迄有る譯では無いと云ふのが或る意味此方の特徴でせうか。 |
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排水桝は小振な鑄物であります。 では右岸側へ移動致します。 |
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京塚橋。 名前の由來は地名かなと思ひ國土地理院の地圖を見てみましたが、如何やら別段さう云ふ譯では無ささうであります。 若かしますと、元の字か小字名が由來なのでせうか。 |
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昭和三十五年三月竣工。 此方の冩眞では讀辛いでありますが、嗚呼、矢張と云ふか何と云ひますか、さう云ふ年代でありましたね。 |
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横から見ました處、拙の大好きな混凝土T字桁でありました。 して、橋臺部分の混凝土の打方が一寸不自然でありますが、多分之は後年に成つてからの護岸工事に合はせて、法面を統一する爲に施工されたのでせうかね。 橋の兩側で混凝土塊團の形が似てゐて非成る物なのが工事の年代を想起させて呉れてゐる樣であります。 併しまあ、中々に良い物件が見られました。 斯う云ふ橋も益々貴重に成つて行くでせうから、現存してゐる内に見られて良かつたであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |