桂村赤澤 皇都橋

2674年 1月 2日 探訪

 【桂村赤澤-御前山村野口 那珂川大橋】 から南下する事約五百米、何時も通つてゐる時に其高欄の意匠から、多分に昭和卅年代後半から四十年代前半の橋だらうなと氣に成つて居りましたので、 今囘やつと寫眞に收め流事が出來まして大滿足であります。

 併し、此方から見ますと、歩道が親柱でぶつ切に成つて居りまして、後年に成つてから歩道橋が架設された樣でありますが、 航空寫眞で確認致しますと昭和五十年には未だ無かつた樣であります。

 案外後年に成る迄安全對策としてはアレだなと思ひますし、此無理矢理な縁石の附具合が又アレでありますが、まあ、きつとさう云ふ物なのでせう。

 と云ひますか、其で良かつた時代に萬歳であります。

 では、此方左岸側から見て行きます。
 こうとばし。

 「くわうと」と云ふ表記でありましたら感涙物なのでありますが、戰後物件の證據でありますので何共云ひません。

 念の爲の轉落防止用の柵が時代を感じさせて呉れて素敵であります。
勿論、混凝土造の方でありますよ。

 と云ひますか、歩道橋は既に桁に成つてゐると云ふ事は、もう結構な高低差が在る場所と云ふ事に成る筈であります。

 之だけで大丈夫だつたのでせうか。
 因に、親柱の裏側ば如何云ふ意匠に成つてゐるのかなと思ひ確認致しましたが、斯う云ふ具合にきちんとした仕事が成されて居りました。
 路盤は混凝土の儘でありますね。
其と、排水桝は桁の兩側では無く、橋臺との接合部全體で兼てゐる、と云ふ事でせうか。

 して、彼方側の柵は原型を留めてゐる儘の樣であります。

 と云ひますか、あれまあ、結構、と云ふか可也深い溪谷の樣な状態だつたのでありますね、此處。
夜しか通りませんと、別段深い谷には見え無かつたものでありますので、之には正直驚きました。
と云ひますか、寧ろ怖い場所だつた樣でありますね。

 大丈夫だつたのでせうか、彼の程度の柵だけで。
 高欄は斜め具合からしまして、先づ間違ひ無く西暦1960年代だと思ひます。

 併し思へば、良くまあアスハルトが盛られ無かつた物でありますね、此牀版。
 昭和36年3月竣功。

 成程、納得であります。
と云ひましても、斜め具合では結構走りの頃でせうか。
栃木縣内で見ますのは昭和四十年代前半の頃の物件からでありますから。

 併し立派な親柱であります。
此方も花崗岩製の樣でありますし。

 では右岸側へ移動致します。
 皇都橋。

 手荒く立派な名前でありますね。
東京市で架つてゐても不思議では無いと思つて仕舞ひました。

 併し左岸側、築堤なのかも知れませんが、手荒く高いであります。
 其と親柱手前の柵、新に造り直されてゐる樣でありますが、石造に成つて居りまして、中々立派であります。

 と云ひますか、破壞されての結果なのでせうが、何が如何してさう成つたのでせうか。
 皇都川。

 柵の減込具合から察しますと、歩道も後年に成つてから作られたと云ふ事でせうか。
 うわ、高い。
寫眞撮つてゐまして足が竦みましたよ、實際。

 斯う云ふ景色、結構な溪谷具合と竹が自生してゐる具合が關東の嵐山と云はれる所以でせうか。
さうして、左岸側は皇都と云ふ地區名の樣でありますので、古の京都に因で命名されてゐると云ふ處なのでせうか。

 して、橋臺に附てゐる鐡の何かは補強の爲でせうからアレでありますが、氣に成りますのは川牀であります。
彼の崩れた混凝土は一體何だつたのでせう。
若かして舊橋の名殘なのでせうか。
何と無くでありますが、橋脚に見える樣な物も在りますので。

 あ、現皇都橋は一徑間の混凝土桁橋でありますね。

 T字なのかI字と云へば良いのか分りませんが、多分PC形式だらうとは思ひます。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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