烏山町旭、中央-初音 旭橋

2679年 1月 8日 探訪

 此方は 【烏山町金井-中央 新橋】 依り三百米程清水川を下つた處に架る、現國道二九四號、舊稱都市計畫街路旭通線の橋であります。

 都市計畫街路旭通線は元々國道二九四號のバイパス的扱だつたと思はれるのでありますが、栃木縣道十二號線の旭交叉點から先のバイパスが完成した後に、 國道に昇格した物と思はれます。

 扨、ぱつと見には兩側に歩道も附て居りますし、何と云ふ事も無い橋の樣でありますが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で此方、嗚呼、地區的に少々ややこしいのでありますが、向つて中央依り左側が旭地區、右側が中央地區でありまして、對岸側が初音地區でありますので、 先づは左岸旭、中央側から見て行き度いと思ひます。
 親柱は無く、銘板も御坐いません。

 して、高欄は所謂鐵柵の樣な意匠であります。
 ん!?
 何と、斯樣な處に、之は親柱と云つて良いのか如何か手荒く疑問な感じでありますが、其處に何か銘板も附て居ります。
 昭和二十七年四月竣功。

 何と、可也の歴史的物件では御坐いませんか。

 で以て、此親柱的な物、ちやんと橋臺から出て居りますので、手荒く斬新では御坐いますが、樣式的と云へば樣式的の樣な感じが致します。

 と云ひますか、此年代で、而も町道で兩側に歩道を有して作られてゐると云ふ處も凄いであります。

 當時の烏山の發展具合が偲ばれる、と云つた處でせうか。
 旭橋。

 流暢な筆跡、字體でありますので、之は發注者首長、當時の烏山町長の筆跡を基に作られた銘板では無いでせうか。

 因に、此方側の親柱らしき物には銘板は附て居りませんでした。
 排水桝。

 結構大型であります。

 では右岸初音側へ移動致します。
 昭和二十七年四月竣功。

 此方側にも竣功年度の銘板が附て居りました。

 唯、河川名の表記が無い事から、元から附てゐ無いのか、其共御覽の樣に河川敷が公園として整備された爲に撤去され度のか、何方かだらうとは思ひます。
 あさひばし。

 うむ、字體が手荒く素敵であります。

 特に「し」が個人的には素晴しいであります。
 此方には施工會社と代表者の氏名が銘記されて居りました。
 左岸側に戻つて横から見ました處、一徑間の鈑橋、と思ひましたが、何と、此方混凝土拱橋では御坐いませんか。

 斯樣な街中で拱橋とは手荒く驚きました。

 唯、多分之、公園として整備された時に隨分と埋たのでは無いでせうか。
御蔭で觀察し易くて有難いでありますがね。
 と云ふ事で下に遣つて來ました。

 道路部分が拱橋なのは良いとして、歩道部分はT字では無く箱桁だつたのでありますね。

 まあ、之だけの橋長を一徑間で結ぶと成れば強度的に勝つてゐる、と云ふ事での選擇かと推察致しました。
 點檢用の扉、でせうね。
 拱橋部分の橋臺等。

 基本的にT字、と云ふ事なのでせうか。
 柱部分。

 開腹式上路拱橋、と云ふ構造でせうね。
 柱の部分には横桁も入つて居りますね。
 最早藝術的な型枠跡。
 歩道部分の橋臺との間には龜裂が入つて居りましたが、多分之は東日本震災での影響でありますかね。

 と云ひますか、斯うして見れば其々別な年代に施工された橋臺だと云ふのが分りますね。

 併し、何で歩道と一體で不作斯う云ふ具合にし度のかと最初は疑問だつたのでありますが、航空冩眞で確認致しますと、昭和四二年と五十年では橋の幅員に違ひが見られました。
恐く、其間に歩道部分が附足されて斯う云ふ具合に成つたのだと推察するのでありますが、さうでありましたら高欄の意匠にも納得であります。

 唯、何故河川名の銘板を無くし度のかは謎でありますし、親柱が無いのも疑問であります。
其代りに竣功年度や施工業者等の銘板は殘したのは素敵な配慮だとは思ひますが。

 併しまあ、斯う云ふ具合に拱橋を下から間近で觀察出來ると云ふのは珍しいでありますし、而も其が結構歴史的物件と云ふのが嬉しい限りであります。

 一つ贅澤を云ひますと、竣功當時の親柱、高欄が活かされた儘でありましたら尚素敵だつたらうなあと云ふ感じ、て、否、 二枚目の冩眞を見ますと、舖裝の割方で元の幅員が分りますね。
彼では元の親柱と高欄が撤去されても當然でありますね。呵呵

 以上、御附合有難う御坐いました。

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