上三川町上三川 名稱不明橋 【二】

2680年 2月 3日 探訪

 此方は 【上三川町上三川 名稱不明橋 【一】】 依り五十米程北側、用水に架る栃木縣道四七號線舊々道の橋であります。

 まあぱつと見如何にも戰前物件、舊道は昭和廿九年の鬼怒大橋の架設と共に出來たのでせうから、上記の橋も同時に竣功と云ふ事で間違無いでせう。
と成りますと、必然的に此方舊々道の橋は其以前と云ふ事に成るでせうが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。
 丁寧に笠石部分も作られ、手荒く良い雰圍氣の親柱でありますが、殘念乍銘板は外されて居ります。

 多分結構薄手の物が附てゐたと思はれますが、其以前には依り大型の銘板が附てゐた形跡が御坐います。

 多分でありますが、一度は戰時中の物資供出で外され、其後は舊道に成つた時に外されたのでは無いでせうか。
 此方側も同樣であります。

 橋の雰圍氣としましては、 【宇都宮市石井町 名稱不明橋 【一】】 に近いでせうか。
 高欄は八角形の穴が開いてゐる意匠でありまして、如何にも戰前、新しくても昭和卅年迄の意匠と云ふ感じであります。

 では右岸側へ移動致します。
 まあ此方も同樣でありますね。

 銘板は上下に棒を入て固定されてゐた樣であります。

 併し此方、手荒く親柱の状態が良くて驚きました。
 此方も色々と同樣、中々であります。
 横から見ました處、之は牀版橋でありますね。
戰前物件と云ひますとT字が多いと思ひましたので、一寸意外でありました。

 扨、竣功年の推察でありますが、昭和卅年の航空冩眞は勿論の事、昭和廿一年でも同樣の姿に思へました。
さう成りますと、銘板が附てゐたであらう事から昭和十年前後以降、多分紀元節に合はせての公共事業が多かつたでせうから、昭和十五年頃迄には架設されてゐたのでは無いでせうか。

 まあ、如何にも橋らしいと云ふか、懐しい姿の橋が見られて手荒く滿足でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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