上河内村上小倉 新堀橋

2673年 7月 1日 探訪

 此方も栃木縣道六三號線舊道側、前囘の板橋から二百米程北上致しますと在る橋であります。
此方の方が、見た目の痛み具合からして依り古い橋に見えると云ふ處でせうか。

 實は最初、左手の側道の部分が若しかして舊々道部分かなと思つてゐたのであります。
でありますが、此方が昔からの街道筋で正解だつたのだと、此方の橋を見て確認出來たのでありました。

 まあ、見た目は別に何處にでも在りさうな、單にヤレた古い橋なのでありますが、其こそが歴史の證人足り得ると云ふ好例でせうか。

 因に側道部分でありますが、航空冩眞で確認致しますと、如何やら廿世紀末頃に成つてから出來た道路の樣であります。
農作業の安全性確保の爲でありますかね。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 昭和九年五月。

 いやあ、來ましたね、之は。
行也昭和一桁物件、而も斯う云ふ何氣無く普段通つてゐる樣な處に在ると云ふ事に感動致します。

 併し混凝土に直接字を彫る事から銘板を取附る樣に成る端境期と云ひますか、昭和八年から十年頃に掛て區區な氣が致します。

 併し昭和一桁年代、案外低い位置に銘板附ますよね。
 其と意外でありましたのは、斯う云ふ年代でも高欄に鐵棒が使はれてゐると云ふ點でありますか。

 てつきり戰後からかと思つてゐたのでありますが、良く考へますれば、氏家町の此方、 【氏家町押上 大橋】 もさうでありましたのが、物資供出の爲に撤去されたのでありますから、使はれてゐて當然と云へば當然でありますよね。

 でありましたら此方、良くぞ無事だつた物であります。
 一寸逆光で見辛かつたので反對側の物へ。

 高欄、凝つてゐ無い樣で意外と凝つた意匠だと思ひます。

 今更でありますが、混凝土橋が出來始まつた頃は總稱して永久橋と云はれてゐたのも、何と無く納得であります。

 斯うして九十年近くも現役なのでありますものね。

 では、左岸側へ移ります。
 して、横から見ますと斯う云ふ感じであります。

 何と云ひますか、全てが一體構造の樣な感じに成つてゐるのでありますが、是はきつと後から護岸を整備したからなのでは無いかと推察致します。

 而も手荒く頑丈さうでありますので、此方も橋とほぼ同年代の施工でせうか。

 因に、桁は單純桁とかスラブ形式と云ふ物では無いでせうか。

 併し斯うして見ますと、隨分と舖裝が牀版に盛られてゐるのが良く分ります。
 しんぼりばし。

 うん、手荒く素晴しい字體であります。

 斯う云ふ銘板として鑄造される字體、架橋時の發注者、まあ其々の自治體でありますが、其時の首長が筆を揮ひ書いた物ださうでありますね。

 斯う云ふ、特に「ばし」の「し」の書方、格好良くて大好きであります。
 新堀川。

 昔からの灌漑用水は命名されてゐる場合が多いのでありますかね。
其共、元々は普通の河川だつた物を改修して用水堀にしたと云ふ事なのでせうか。

 否、だつたら新堀とは命名し無いでせうから、灌漑用水として作られた河川と云ふ事なのでせうね。

 併しまあ、親柱が倒れさうなのか、針金で支へてゐるのが勞しいであります。
 因に、親柱を上から見ますと斯う云ふ具合であります。

 四方の混凝土板は後から附てゐるのでせうが、之だけ凝つた意匠を施す程、架橋に對する想ひが強かつたと云ふ事なのでせうね。

 と云ふか、如何云ふ具合で壞れて行くのかが良く分る構圖に成つて仕舞ひました。呵呵
 良くまあ不倒に殘つてゐる物であります、親柱。

 バイパスが出來た御蔭で此方の交通量は手荒く減りましたから、此儘ずうつと殘る樣に成つて欲しい物件であります。

 因に、此方に群生してゐる植物、少々調べて見たのでありますが、如何やらトクサ(砥草)と云ふ植物なのでありますね。
而も自生してゐるのは珍しいとの事であります。
さうして、山菜藥草でもあり其莖は下痢、痔の出血、月經過多等に效くらしく、煮て乾燥させれば砥石や紙鑢の樣に使ふ事が出來、 齒磨等にも使はれてゐたとか、何か色々と役立つ植物なのでありますね。

 銘板の冩眞撮る時に邪魔と云ひますか、踏んでも中々に固くて丈夫さうな草だつたのでありますよ。

 今度少し拜借して、庭にでも植ゑて見ませうかね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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