氏家町押上 大橋

2672年 10月 15日 探訪

 東北自動車道が出來た事に因り舊道化し、半ば行止りと成つて仕舞つた大宮街道が市ノ堀用水を渡河する處に架けられた橋であります。
路盤にはアスハルト舖裝が盛られて居りますが、全體をぱつと見た印象では、多分に戰前物件だらうと云ふ感じが致しますが、如何な物でせうか。

 一寸個人宅の庭先がはつきり寫つて仕舞ふのもアレかと思ひ鹽谷町側から寫した構圖に成つて居りますが、序ででありますので此方、左岸側から見て行きませうか。

 市ノ堀用水に關しましては拙が説明する迄も無いと思ひますので、割愛させて戴きます。
 凝つた意匠の親柱であります。
 でありますが、殘念な事に此方左岸側は銘板が兩親柱共に消失した状態であります。
 横から見ました。
二徑間の混凝土桁橋であります。

 形式的には如何なのでせう、多分單純桁と云ふ依りはT字桁とか云ふ形式なのでは無いかなあと思ふのでありますが、下から見て居りませんので何共言へません。

 直下の堰でせうか、可愛らしい落差が素敵であります。
 橋臺と橋脚をも少し良く見てみます。

 橋脚は尖頭型でありますから、ほぼ戰前物件の可能性が高いと見て取れると思ひます。
橋臺の部分は護岸と同樣に石積みに成つてゐるのでありますね。

 其と、高欄が中央の柱で繋がつてゐる一體の物と思つてゐましたが、斯うして見ると桁毎に分離して居りました。

 では、右岸側へ移ります。
 昭和十三年十二月。

 をゝ、矢張り戰前物件でありましたか。

 未だ橋が地域の大切な財産で、今の樣に簡單に架橋出來無かつた時代には凝つた意匠の物が多いでありますね。
素敵であります。
 大橋。

 此場合讀みは普通に「オホハシ」で良いのだと思ひます。
多分。
 欄干が何か壞れてゐる樣に見受けられるのでありますが、後日地元の方に聞いた話に依りますと、元々は鐵筋の裝飾が入つてゐたさうであります。
其が大東亞戰爭に因る物資供出で取られ、同時に左岸側の銘板も同樣の運命と成つて仕舞つたとの事でありました。

 右岸側が免れたのは幸ひでありましたが、左岸側、如何云ふ表記の銘板が附てゐたのかが不知、些か殘念であります。

 まあ其も人類の歴史、と云ふ事でせうか 。
 今では地元の人の生活を支へるだけの運命に成りましたが、元々街道筋の橋でありますので、此儘ずつと生存へて呉れる橋だと思ひます。
良い物件が見られました。

 因に此方、現在の大宮街道、栃木縣道六二號線から見た姿なのでありますが、現道の方もガアドレイルが古二型で此方も當時物でせうから、此は之で良い物が見られました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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