2674年 6月 10日 探訪
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下田原地區の栃木縣道七三號線舊道部分、富岡橋(トミオカバシ)の直傍、一見橋とは思へ無い状態でありますが、未だ立派に橋として機能してゐる道路、否、橋が御坐います。 實際御覽の通りなのでありますが、此方は河川改修前の山田川に架つてゐる當時の姿其物であります。 草地に成つてゐる部分は埋立られて居りますが、此處がオリヂナル山田川の部分であります。 因に田原街道界隈の【御負け】 の八番目で書きました富岡堰の石碑は、奧の柵の傍に在ります。 不取敢まあ、現在の橋との違ひを御樂しみ戴き度いであります。 では此方、左岸側から見て行きます。 |
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親柱は消失、と。 手荒く殘念であります。 |
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上流側に至つては完全に削り取られ、と云ひますか、何か晩年はガアドレイルが取附られてゐた樣にも見えますが、其も撤去されてゐる樣であります。 と云ひますか、最早此方側は橋とは云へ無い状態であります。 |
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高欄は立體的且つ結構凝つた意匠かと思ひます。 若かしますと、富岡堰改築記念碑の年代から考慮しまして戰前物件と推定致しますが、良くまあ物資供出で鐡棒が取られ無かつたなあと感心する次第であります。 では右岸側へ移動致します。 |
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まあ當然右岸側も親柱は無い譯でありまして、殘念な事と成つてゐるのであります。 扨、では何故に此方の名稱を富岡橋としたのかと云ひますと、近くに出來た新しい橋の名稱が富岡橋と成つてゐるのであります。 さうして、此方は全ての親柱が消失して居りますし、近くの堰の記念碑等から考察しますに、此方の名稱が元々の富岡橋だつた可能性が極て高いからであります。 |
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左岸側の橋臺附近を見て居ります。 此處、實はちやんと水が流れて居りますから、安易に足を踏入れると大變であります。 でありますので、氣を附乍下りて橋臺を見ようと思ひましたがアレでありました。 因に、主桁が橋臺に向つて斜めに下がつてゐるのが御分り戴けるでせうか。 |
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右岸側もまあ、一寸見辛いでありますね。 でも主桁依りも牀版が外側に迫出してゐる形なのは御分り戴けると思ひます。 混凝土の質、主桁の形状からしまして、多分に戰前物件で間違ひ無いだらうな、とは思ひます。 其と、牀版から地覆、高欄の意匠迄全て手が込んだ造形だなと感心致します。 |
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まあ、斯樣にひつそりと佇んでのんびり餘生を過ごし、ずつと殘つてゐて呉れると嬉しい物件かな、と云ふ氣が致しました。 併しまあ、昔乍の川の方が或る意味安全かも知れ無いと云ふのが傳はるでせうか。 何處からが流れか分ら無いので、迂闊に近附のは危險だと、自然自體が警告して呉れてゐる樣なのであります。 さう云ふ點で、現代は過保護だなあと、ふと思つて仕舞ました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |