2674年 6月 2日

 新栃木變電所。

 個人的感想は、凄いけれど不氣味。
 彼方此方から來るのでありますね。
東北新幹線關係が右端に冩つて居りますが、可愛い物であります。

 其でも櫓状の部分が個人的感想としましては不氣味であります。
 其直傍、河川改修から免れた樣な川が在りました。

 手荒く美しいであります。
 素晴しい。
 斯う云ふ自然環境、昔は何處にでも在つた筈でありますのに、皆何處へ消えて仕舞つたのでせう。
 上田原地區に在る耕地整理記念碑。
昭和五年から十年迄の事業を記した物で、昭和廿四年建立。

 大東亞戰爭の關係で戰後の建立に成つたのでせうか。
紀元節にでも良かつたのでは無いかなと思ひましたが、其處は其、色々々々と大人の事情が有るのでせう。
多分。
 馬力神。

 此方は建立年度確認出來ませんでした。
 下田原地區、栃木縣道七三號線富岡橋の袂に在る富岡堰改築記念碑。

 富岡堰は昭和十一年竣工の樣であります。

 此方改修前の山田川の部分に在つた堰でありますが、航空冩眞で見るに、其はもう立派な堰の樣でありました。
今は埋立られて居りまして其痕跡は無いのでありますが、正直、現役當時の姿を見てみたかつた物件であります。
 琴平神社と、もう一方は判讀不能でありますが高龗神社とだけは讀む事が出來る奉納の記念碑。

 高龗神社、若かすると日本鐵道が通つてゐた古墳の事でせうか。

 因に、大正十年建立であります。

 洗出の混凝土造とか、手荒く先進的な碑だつたのでは無いでせうか。
 下田原地區、山田川の右岸に在る縣道改修記念碑。
建立は確か大正六年だつたと思ひました。

 成程確に、大正時代の地圖では隨分と現在の舊道の線形に近附てゐる部分も在りますから、納得であります。
 同じく下田原地區、此方は山田川の左岸に建立されてゐる道路改修碑。

 大正四年十一月十日と成つて居りまして、携つた建設會社二社が建立した石碑の樣であります。
 して、其土臺が問題でありまして、御覽の樣に昭和九年三月竣功の芝原橋の銘板が埋込れてゐるのであります。

 其謎が何かと云ひますと、山田川を渡る縣道は通稱田原街道の縣道六三號線であります。
併し現在、人道橋と成つてゐる橋は新山田橋でありまして、近くの乘合バスの停留所の名前は山田橋であります。
然し、元の橋が架つてゐた地區は芝原と云ふのであります。

 と云ふ事は、若かして山田川に架つてゐた舊橋は芝原橋と呼ばれてゐたと云ふ事でせうか。

 地元の若い方(多分六十代前後)に訊きました處、現在の橋依も少し上の橋の物と云ふ事でありました。
でありますが、流石に縣道七三號線の物を此處に持つて來るとは思へませんし、彼方は富岡と云ふ呼稱が有りますので、多分芝原橋が田原街道の橋だつた、 と云ふ事で限り無く正解では無いかと思ふのでありますが、確證は未だ得られて居りません。
 少し山田川添ひに下りますと在つた、山田川改修に伴つた共同墓地の移轉記念碑。
 さうして、如何にもな平成一號橋。

 勿論と云ふか當然と云ひますか、平成二年竣功。
 も少し下ると、何と珍しいシイルで出來た銘板であります。
 と思ひましたら、何と本來の銘板が消失してゐた爲の苦肉の策の樣でありました。

 多分に盜難被害に遭つて仕舞つたのでせう。
 塙田一丁目三、縣廳前通りの交叉點であります。

 大曾通から先が何故赤門通と呼ばれてゐるのか不明だつたのでありますが、此冩眞を見て納得致しました。
成程、大通側から來て見れば、眞直此赤門、慈光寺に向ふからなのでありますね。

 と云ふ事は、元々參道だつたと云ふ事なのでせうか。

 併しいやあ、何故ほんの今迄拙氣附無かつたかと云ひますと、此處の交叉點、現在砂利敷に成つてゐる部分、つい最近迄派出所が在りまして、 其方許見てゐた物でありますから、御寺の存在には全く氣附ませんでした。

 まあ、以下省略。

 併しまあ、車一臺も置けるか如何かの敷地に良く建つてゐた物であります。

 嗚呼、以下省略。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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