河内町下岡本 舊疉内橋

2674年 1月 28日 探訪

 先づは此方、 【河内町下岡本 畳内橋】 を見てゐて此冩眞の樣に横を向た瞬間、想像だにし無かつた物件が目に飛込で來たのであります。
 はい、如何でありますか、小振乍見事な混凝土拱橋が直隣に架つてゐたのであります。
而も當然の如く道路としましては廢物件。
突如の御寳出現に、現地で思はず「何」と大聲上て仕舞ました。

 御覽の樣な状態でありましたので、ぐうぐるの衞星寫眞では橋が在ると確認出來無かつたのであります。
でありましたので、冗談拔で本當に横を向迄其存在に氣附ませんでした。

 併し之、橋に對して路盤の高さを調節する爲に大谷石が使はれてゐると云ひますか、何か工法が丸で別物の樣な氣が致します。
何と云ひますか、もつと古い方式に則つて造られた物件とでも云ひますか、現在知られてゐる橋とは一線を畫す樣な氣が致します。

 勿論、當然の如く舖裝が乘る事は無く、橋の手前部分は大谷石其物の儘だつたのでせうから。

 併しまあ、あつと云ふ間に削れ度りし無かつたのでせうか、大谷石。

 不取敢、左岸側から見て行きます。
 橋の上にはすつかり土が堆積し、見事に草生して居りますが、未だ未だとてもしつかりした物でありました。

 併し何と云つても凄いのは、石が親柱に見立られてきちんと鎭坐してゐるのであります。
而も、後から置いたのでは無く、最初から親柱として造られてゐるかの樣な構造なのは、上の冩眞でも分る通りであります。

 因に、渡つて直左に折てゐるのでありますが、實は其が舊線形其物であります。
 何か良いでは御坐いませんか、此佇。

 併し石の親柱つて當然乍初て見ました。
之で橋自體が木橋何かでありましたら、一氣に江戸時代風情滿點の姿でありましたのに。

 して、橋名等彫つて有るかなと思ひ見たのでありますが、殘念乍其は御坐いませんでした。
 此方側は倒れて居りまして、不取敢現存する、と云ふ事だけしか確認出來ませんでした。

 では、右岸側へ移動致します。
 冩眞が無かつた處を見ますと、上流側は消失してゐたのでせうか、不取敢下流側のみであります。

 いやあ、併し之は最高の物件であります。

 而も此處、航空寫眞や古地圖で確認しました處、昔からの道筋でありまして、其以上に凄いのは、之が少無く共昭和卅年迄は見事に現役だつたと云ふ事であります。
 と成りますと、之は一體何時頃の物件なのでせうか。

 單成る混凝土のT字桁や單純桁では無く、此規模の橋で拱橋等、拙の記憶の中では前代未聞であります。
記憶に有る大正物件でさへ普通の桁でありますので、まさかとは思ひますが、日本で混凝土が橋に使はれ始めた極初期、明治末期頃の物件とかなのでせうか。
親柱に見立た石等からしましても初て見る物でありますので、若明治物件だとしましたら、之、手荒く貴重だと思ふのでありますが。
で以て、崩れ等の痛みがほとんど見られ無いと云ふのも特筆すべき點だと思ひます。
 も一つの特徴と致しまして、當然場所打なのでせうか、川に對して微妙に斜に架つてゐるのであります。

 さう成りますと一寸殘念だつたなと思ひましたのは、若も之が煉瓦積で作られて居りましたら、きつと"ねじりまんぼ"を身近で見られたのだよなあと、 思はず贅澤な事を考へて仕舞ました。

 之だけ珍しい物件を見られたゞけでも十分でありますのにね。
 併し橋臺附近も特徴的でありますよね。

 まあ桁と云ひますか橋自體は一體構造の樣でありますが、桁と橋臺の段差の埋方でありますとか、先づ間違無く自動車の通行等一切考慮されてゐ無いと思ふのであります。

 斯う云ふ橋、他でも見てみ度いと思ふのでありますが、現存してゐる處等在るのでせうか。

 して、ふと疑問なのでありますが、此物件、鐵筋つて入つてゐるのでありますかね。
何か總混凝土造の樣な氣がし無いでも無い樣な氣が致します。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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