市貝町上根 小貝橋

2673年 9月 3日 探訪

 此方は地藏橋依り三キロ程宇都宮方面に向つた、栃木縣道六九號線の大川に架る小貝橋であります。
矢張交通量の關係で此方の場合、正面からの撮影は斷念致しました。

 併し高欄が在りますのに内側に柵が設けられてゐるとは如何云ふ事なのでせう。
別段問題は無い樣に思ひますし、親柱への注意喚起程度に反射鏡を設るだけでも良い樣な氣がするのであります。
何しろ、之では却つて幅員的に狹くしてゐるだけの樣な氣が致しますので。

 まあ、路面を見ますと、微妙な起伏が附てゐますので、何かアレなのを物語つてゐるのでせうか。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 大川。

 何か路盤に對して低いと思ひますので、此方も地藏橋と同樣に舖裝が結構盛られてゐるのだと思はれます。

 意匠は奇を衒ふ事無く極普通、と云ひますか、上部に飾りが附てゐる邊、古風且つ地元の財産的な印象を興へて呉れて居ります。
 小貝橋。

 いやはや、寫眞見て改て氣附たのでありますが、高欄は二本の鐡管を使つた物だつたのでありますね。
但し下の一本はほぼ埋つてゐると云う。

 而も之、歩道部分の橋は後附だと云ふ事に成ると思はれます。

 元々から作つて居りましたら、斯う云ふ具合、斯う云ふ位置には成りませんものね。
 併し高欄の破壞度合が手荒く激しいであります。
其と同時に、高欄の柱も作り型も分るのでありますが。

 併し之では歩行者の安全策として、歩道以外に内側へ防護柵を設るのも納得であります。

 但し色々と結構苦肉の策だつた樣な状況が窺ひ知れますが。
 横から見ますと、と云つても見辛いでありますが、多分混凝土のT字桁と思はれます。

 併し此方の破壞度合も同樣でありますね。

 斯うして見ますと、若しかしますと前後の坂の間を平坦にし度いが爲に嵩上げし度のか、若しくはもう少し緩かな勾配にし度いが爲に舖裝が盛られたのでせうか。

 多分、架橋當初は混凝土の路盤其儘だつた事と思ひますし、何か其儘でも別段問題無かつた樣な氣がし無いでも無いのでありますが、 まあ、其ではきつと増加した交通量に對應し切れ無かつたのでせうね。

 では右岸側へ移動致します。
 何と、昭和三十六年迄しか讀無い事態に成つて居ります。

 何と云ひますか、確に此先、茂木方面には舊線形の部分が殘されて居りますが、此方小貝橋、親柱四本の内で此處が一番減り込んでゐると云ふ事は、 此方の橋が元々水平ぢや無かつたのか、と云ふ事は無いでせうから、今の路盤、線形は微妙な曲線を描いてゐる爲に輕く傾斜が附てゐるので斯う成つたと云ふ事でせうか。
 こかいはし。

 如何やら此方は命名の傳統通り、「はし」と不濁に讀む樣であります。

 併しさう、 【地藏橋】 とは河川名、橋名の位置が逆なのが御分かり戴けるだらうか。

 之は管理者に對する位置關係からなのでありますが、此橋の位置からは管理者、栃木縣廳が右側に成ると云ふ事なのだと思はれます。

 併し何故此處、大川でありますのに小貝橋と云ふ名前なのでせう。

 まさか小貝川の上流に當る處だからなのでせうか。
 併しまあ變な話、此處で有難いと云ふか橋に取つては迷惑千萬な事でせうが、欄干が破壞されてゐる事に因つて、 鐡管の入具合が斯う成つてゐると云ふ構造が良く分ると云つた具合でありました。

 成程、案外左右對稱では無いと云ふ事と、鐡筋も丸く成つてゐる最上部迄は行つて居らず、鐡管邊りの高さ迄であり、上部は飾りと云ふ事でありますね。

 其と、も一つ大凡分つた事は、斯う云ふ形態の高欄の橋は、大體昭和卅年代頃と判斷出來るのかなと云ふ事であります。

 何故なら、大抵斯う云ふ橋は無名、且つ竣功年度を示す銘板が附てゐ無い事が多いでありますから。

 さう云ふ點では、大きい收穫が得られた橋でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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