芳賀町下高根澤 名稱不明橋 【三】

2674年 5月 19日 探訪

 本田技研の山裾を流れる野元川。

 其丁度アレ、バンクの南側邊の位置に在る橋であります。

 して、河川改修で現在の位置を流されてゐるのか、堤防と山の間には何か溝の樣な部分が在りましたので、多分其處が元々の流れの名殘なのかも知れません。

 扨、御覽の樣に高欄も親柱も無い、素朴な橋であります。
久々に面白い物件に當つた樣な感じでありますが、如何でせうか。
 如何でありますか、中々に豪快では御坐いませんか。
丸で此方、 【鹽谷町肘内-矢板市大槻 農用道橋】 に何處と無く雰圍氣が似てゐる感じがし無いでも無い感じであります。

 否、實際、斯う云ふ處つて自動車なら別段恐怖を感じ無いのかも知れませんが、自轉車でありますと轉倒して轉落とか考へて仕舞ましてね、結構渡るの怖いのでありますよ。

 と云ひますか、手前側、自動車も脱輪すれすれなのでは無いでせうか。
 併しまあ、牀版を見るだけでは繼目は無いのでありますが、橋脚は在るので、一應の中央部の支への樣な考へ方なのでせうか。

 造りや一連の前後の橋からしまして昭和四十年代前半頃なのは確實かと思はれますが、實際の處は如何なのでせう。

 とまあ其は措いとゐて、何で橋脚の上に鐡骨が載つてゐるのでせう。
 唯、之を見る限り、一體如何云ふ事なのか理解に苦しみました。

 元々はもつと立派な桁が載つてゐたと云ふ風に思へ無くも無いでありますし、最初から此姿だつた共云へ無くもありません。
其に鐡骨もきちんと繋いで有るのか何だか良く分りません。

 其と、牀版と鋼材との間の違和感は凄まじい物が御坐いますが。
 橋臺部分は、えゝと、がつちりと固められて居ります。

 之もラアメン構造と呼んで良いのでせうか。

 唯、後からの無理矢理感が御坐いますよね、之。
 と云ひますか、ねえ。

 其也の木を竝べて肥料袋か何だか分ら無いのとかビニルを敷いて、其上に混凝土を打設しただけではい完成、見たいなと云ひますか、ねえ。

 之、木が腐つたら如何成るのでせう。
 其と之、アンカアボルトなのでありますかな、一體何の爲に附られてゐるのでせう。

 若かして元々は柵らしき物でも在つたのでせうか。
其共、材木を固定して地覆にしてゐたとかでせうか。
 而も不揃なのでありますよ、ボルト。
其と牀版の厚みも。

 此感じが手仕事且つ人間らしくて好きなのでありますが、まあきつと假設とか假復舊とか、さう云ふ類の樣な物だつたでせうかね。
兩橋臺にも何と無くの違和感が有りますし。
其が若かして、其儘で今日に至つてゐると云ふ感じなのでせうか。

 して、竣功年度は勿論不明なのでありますが、不取敢昭和四五年頃以降五十年迄の間と云ふのは確實な樣であります。
昭和五十年の航空寫眞では此姿を確認出來ましたし。

 さう成りますと疑問なのが此構造なのでありますが、何か災害で桁が流失した爲に斯う云ふ姿で復舊させ度のか、 其共、最初はガアドレイル高欄の鈑橋を計畫してゐたのに豫算的に嚴く成つた爲、急遽斯樣な構造に成つて仕舞つたかの何方かだとは思ふのでありますが、 まあ、元々交通量云々の場所でも無いでせうから、此儘で十分と云ふ事なのでせうね。

 何か、若かしますと木が腐る等して通行不可能に成つても、改修される事無く其儘廢橋に成りさうな氣がし無いでも無いであります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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