藤原町横川 横川橋

2680年 4月 28日 探訪

 此方は 【藤原町横川 舊瀧上橋跡】 依り二キロ程國道一二一號を北進し、舊道側に入つた處、後澤(峠澤)に架る橋であります。

 まあ、如何見ても昭和卅年代にしか見え無い橋でありますが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。
 よこかわはし。

 親柱は無く、高欄の端の柱に銘板を附てゐる、何でせう、簡略化され度と云ふか、意外と在る型であります。
 横川橋。

 何か此方は結構派手に損壞して居りますね。

 併し銘板の字體一つで年代的な印象は薄いでありますね。
何方かと云ふと昭和四十年代的な工業的字體と云ふ印象であります。
 高欄は昭和卅年代定番の混凝土管を二本使用しました意匠であります。
 排水枡。

 では左岸側へ移動致します。
 昭和三十一年三月竣功。

 成程、斯樣な意匠の中では結構早い時期の橋でありますね。
 何と云ひますか、柱の構造が分ると云ふか、銘板の取附方の方法が分る樣な壞れ方であります。

 銘板の部分、混凝土も別に入れて固定してゐるのでありますね。
 うしろざわ。

 多分漢字表記では後澤で良いと思ふのでありますが、河川名を調べました處、此方現在では峠澤と云ふ事に成つて居りました。

 して、少し考へ度のでありますが、此邊も元々は會津藩の管轄地だつたと考へますと、會津側から見て山王峠の後側の澤なので後澤だつたのでは無いのでせうか。
其が如何云ふ譯か、否、多分栃木縣内なので栃木縣から見てはアレなので、峠澤と改名し度のでは無いかなと推察するのでありますが、如何なのでせう。呵呵
 して、横から見ました處、是は混凝土T字桁で間違無いでせうね。

 今では國道一二一號も五十里近邊から縣境迄の間、隨分と擴幅、線形改良されて元の面影は隨分と減りましたから、斯樣に當時の面影其儘が見られて滿足でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る