馬頭町矢又 名稱不明橋二本

2677年 5月 23日 探訪

 此方は 【馬頭町矢又 押野橋】 依り一キロ程矢又川を上つた處に架る橋であります。

 ぱつと見で分る通り銘板の類は一切御坐いませんので、何と云ふ名稱の橋なのかは分りませんでした。
而も資料的な物でも分りませんで、唯一航空冩眞と高欄の意匠だけが頼りであります。

 と云ふ事で、此方右岸側から見て行きます。
 さう、高欄が古ガアドレイルの一型でありますし、且つ丸柱でありますので、昭和四三年頃から昭和四五年頃迄の物件では無いかと推察致します。

 其と、河川の護岸が石積では無く混凝土塊團と云ふ處からも、大凡昭和四四、五年頃に絞られるのでは無いかと思はれます。
 横から見ますと鈑橋でありました。
さう云ふ點からもさう云ふ年代でありますね。

 して、航空冩眞で確認致しますと、昭和四四年では未だ現在の橋とは違ひますので、昭和四五年頃竣功で間違無いと思はれます。

 因に、排水桝は全て土で埋つて居りまして、確認出來ませんでした。
 扨、御次は先程の橋から六百米程上つた處に架る橋であります。

 此方は昭和卅八年の航空冩眞では確認不出來、昭和四四年の冩眞では確認出來ますので、其間に出來た物件かと思はれます。

 唯、ぱつと見の意匠は 【馬頭町矢又 押野橋】 に近いので、一見するとさう云ふ年代に思へて仕舞ますが、護岸が混凝土塊團でありますので、昭和四十年代に入つてからの物件では無いかと推察致します。

 と云ふ事で、此方も右岸側から見て行きます。
 まあ、銘板は御坐いません。

 と云ひますか、寧ろ補修された後に復壞れてゐる、と云つた状態でせうか。
 此方も同樣の感じであります。

 では左岸側へ移動致します。
 此方は唯一原型を留てゐると云ふ處でせうか。
 此方は元々農用道に曲り易い樣に斯う成つてゐたのか、後年に成つてから斯う云ふ具合に成つたのか不明でありますが、高欄が補修されてゐるのだけは間違無い樣であります。
 横から見ますと、之は多分牀版橋と云ふ形式の物では無いかと思はれます。

 併し右岸側、橋の上の護岸だけが石積に成つてゐるのでありますが、多分でありますが、先づは堰に成る部分を作つてから下流側に着手したと云ふ事で、 微妙に年代が違ふ事から、斯う云ふ状態に成つてゐるのでは無いでせうか。

 と云ふ感じで二つの物件を見た次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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