馬頭町大那地 大月橋

2677年 5月 30日 探訪

 此方は 【馬頭町大内 上木戸橋】  依り二キロ半程栃木縣道二三二號線を南進しました處、大内川の支流の大月澤に架る橋であります。

 一見しました處、現代の橋だなあと云ふ意匠なのでありますが、だつたら此狹窄區間も改修されてゐる筈でありますし、其依り何依り、 現代の橋にしましては親柱が立派過ぎますし、銘板が縱書で如何にも古風と云ふ感じでありましので、じつくりと見てみる事にした次第であります。

 と云ひますか、ぐうぐるのストリイトビウで見た時の印象とは違ひましたので、最初は架替られて仕舞つたのかと戸惑つたと云ふのが正解でありますがね。呵呵

 と云ふ事で、此方右岸側から見て行きます。
 大月橋。

 二六七四年のストリイトビウ畫像では架橋時其儘と云ふ感じでありましたが、二六七七年では斯樣に塗裝されてゐる状態に成つて居りました。

 其と緩衝裝置も新しくされて居りますね。

 親柱の意匠的には昭和卅年代以前の樣な感じに見受られるのでありますが、其實如何な物なのでせうか。

 他の親柱で竣功年等が分れば良いのでありますが。
 大月澤。

 をゝ、何と正字體でありますよ。

 之は戰前物件を其儘に桁だけ實は更新されてゐると云つた感じなのでせうか、違ふとは思ひますが。

 とは云へ、上記の通り今囘の三年前の畫像では高欄の意匠が如何にも昭和卅年代後半と云ふ感じの、混凝土管を二本使用しました物でありましたので、 若かしますと其も架橋當時とは別の桁だと云ふ事なのでせうか。

 嗚呼、と云ふ事で、今の高欄と地覆は斯樣な有樣でありますので冩眞は省略致します。
 昭和三十二年三月竣功。

 成程、昭和卅年代前半の物件でありましたか。
でありましたら正字體も納得であります。
多分、未だ此時代つて公用語は正字體、正假名が正式だつた樣な感じなのでせうから。

 まあ其と、銘板の意匠も卅年代半ば以降とは違ひ、文字の間が簡素でありますので、未だ昭和廿年代的な名殘を感じさせて呉れて居りますね。

 併し、「年」が手荒く達筆で素晴しいでありますよ。
 おほつきはし。

 嗚呼、正假名遣ひ堪りません。

 併し親柱の意匠も、簡素な樣でゐて結構凝つてゐる感じであります。
 横から見ますと、何と混凝土橋では無く鈑橋でありました。

 唯、何と無くでありますが、斯う云ふ鈑橋つて昭和卅年代末期からの物と云ふ印象でありますので、若かしますと、本當に架橋後數年で何か桁が壞れる事態に成り、 桁だけ架替に成り昨今の改修に至ると云ふ感じなのでは無いでせうか。

 はつきりと工事銘板が確認出來れば良かつたのでありますが、一寸難しい状態でありました。

 其横に白く塗裝記録が書かれて居りますので、其也の年代の物件なのは間違無いと思はれますが。
 唯、斯樣に橋臺部分を見ますと、如何にも鈑橋に合はせて混凝土が後から盛られてゐる樣に見受られるのであります。

 でありますので、多分元々は混凝土T時桁だつたのでは無いでせうか。

 と云つた具合に、意外と見所の在る橋なのでありますが、多分此處も其内に擴幅され全面的に架替に成つて仕舞でせうから、 さう成る前に冩眞に收める事が出來て良かつたなと云ふ感じでありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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