馬頭町和見 泉田橋

2677年 3月 7日 探訪

 馬頭町中心部からは久那川に添ふ樣に北上する栃木縣道廿七號線、其路線が二囘目に久那川を渡るのが此方の橋であります。

 一度目に渡河する邊から上は護岸を整備しただけの、ほぼ未整備に近い状態の樣でありますので、此方も整備の對象と成つてゐる樣でありますが、 其は後程記す事に致しませう。

 して、不取敢此方でありますが、御覽の樣に擴幅、線形改良に因り片側のみが辛うじて原型に近い状態を留めてゐる橋であります。
其な橋で何處迄竣功當初の姿が殘つてゐるのか、不取敢此方右岸側から見て行き度いと思ひます。
 をゝ、親柱は殘つて居りました。

 でありますが、何か讀辛いのでも少し銘板に近附て見ませう。
 大那川、でせうか。

 否々、此方は久那川でありますので、きつと達筆過ぎて久に見え無いだけでせう。

 其共、大那川から久那川に名稱變更された經緯でも有るのでせうか。
 下流側には、何と無く此處だつたと云ふ感じで親柱の一が分る、と云ふ感じでありますかね。

 では、左岸側へ移動致します。
 ええまあ、當然でありますね。

 此な道路の中央に親柱が其儘殘つてゐたら大問題でありますから。呵呵
 竣功昭和三十五年三月二十日。

 嗚呼、矢張結構な年代の物件でありましたね。

 併し之だけ銘板の位置が低く見えると云ふ事は、結構路盤の上に土盛されてゐると云ふ事だらうと推察致します。
 横から見ますと混凝土T字桁、の樣に見えますが、多分之は地覆の部分が結構外に張出してゐるだけの牀版橋だらうと思はれます。

 して、元の高欄からは手荒く作り替へられてゐると思ふのでありますが、元々は混凝土管を一本使用した、さう、例へば 【眞岡市西田井、根本-八條 赤堀橋】 等の樣な感じだつたのでは無いでせうか。

 因に、現地では橋名を知る手掛りは皆無だつたのでありますが、日本建設新聞社の日刊建設新聞の記事から判明致しました。
其に依りますと、此方はそろそろ架替に成る樣でありますので、其前に冩眞に收める事が出來て良かつたなと云ふ感じであります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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