氏家町上野-狹間田 舊大日本帝國陸軍々用道路

2673年 5月 14日 探訪

 【現在地】

 地元の人には馴染み深い、何の變哲も無い國道二九三號の上野(ウハノ)交叉點。
處が、實は此處から右に折れて行く道が元々軍用道路だつたのだと云はれたら如何でせうか。
拙は勿論最初は信じられませんでした。
でありますが、信用出來る筋から直々に臺帖を見たら實はさうだつたと云ふ話を聞きましたので、正眞正銘、本當に軍用道路だつたのであります。

 と云ふ事でありますので、右手方向、軍用道路へいざ進むと致しませう。
 併しさうと分りますと今迄と違つた景色に・・・然程見え無いのでありますが、此中央線の無い道路、本當でありましたら幅員約九米、所謂"五間道路"なのださうであります。

 其は多分に戰車の通行を考へて幅員を確保してゐたのであらうと思はれますが、今迄は何故か其幅員程道路自體は確保されて居らず、 其が此處最近に成り實際の幅員が判明しましたので、新築物件からは元々の境界迄下がつて貰つてゐるさうであります。

 成程、確かに。
 此外側の歪な曲線は、實際の幅員を主張してゐるのでせうか。
其所爲か、電柱とカアブミラアが道から遠いであります。

 道が細かく折れてゐるのは防衞上の爲と云ふ事なのでせうかね。
 此だけ違ふと成りますと、今迄の敷地面積からの差を納得して貰ふのも大變だつたのでは無いかと思つて仕舞ひます。
 併しまあ何と云ふか、實際。

 一應、戰後、軍が放棄した後は地元の人に返還と云ふのか何と云ふのか、さう云ふ譯で今の幅員に成つてゐると云ふさうでありますが、 其でも電柱の立ち位置を見る限り、何共難しい處では無いかと思ひます。
 斯う云ふ何と云ふ事も無い樣な、多分唯の昔乍の折れ具合も、軍用道と聞けば戰略的意圖に則して作られたと思へて來る始末であります。
 うん、奧まつてますね、實際。
 後はもう、眞直ぐ行きます。
 曲ります。
 【現在地】

 眞直ぐ行きます。
 途中で復電柱の位置が隨分と變りますが、水路が在るからと云ふだけでは無く、手前の田圃にも電柱と同じ邊りの位置に境界標が建つてゐました。
 右折します。

 現在は此方が一時停止に成つて居りますが、元々は此方が優先でありました。
多分、左手から來る道が栃木縣道二二五號線指定に成つたからだらうと思はれます。
 どんと廣く眞直ぐ進みます。
此處が實際に五間幅有る部分なのでせうね。

 此の冩眞では傳はり辛いでありますが、本當にだだつ廣いと云ふ感じであります。
 歩道と境界迄の敷地だけでも一車線分は在ります。
 此方側だつてほうら、此通りでありますもの。
 以前から何故之だけ廣いのだらうと謎だつたのでありますが、斯う云ふ事だつたのかと謎が解けた感じでありました。
 緩く曲がつた先には縣の境界標が竝んでゐました。

 元々何か道が接續してゐた、と云ふ譯でも無ささうなのでありますが、何の爲なのでせうか。
 其軍用道路も此處迄、JAしおのや熟田支所前(跡!?)の、舊熟田中學校(現熟田小學校)裏手からの道との丁字路交叉點で終りであります。

 以前は此處から途端に狹く成つてゐましたが、現在は栃木縣道二二五號線としてだからでせうか、擴幅されて居ります。

 併し、終戰を迎へ未成の儘に終はつて仕舞つた軍用道路でありますが、一軆何處から如何云ふ風に繋げて使ふ計畫だつたのでせうか。
當然の如く此處等一帶には軍事施設は在りませんし、詳くは未だ謎の儘であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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