芳賀町給部-烏山町向田 栃木縣道六四號宇都宮向田線舊、舊々道 【其四】

2674年 11月 4日 探訪

 【其三】からの續きであります。

 【現在地】

 きつと現道完成後車兩通行止に成つたのだと思はれますが、其也に舖裝の部分は結構判別出來ますので、結構人の往來が在る、若くは整備が爲されてゐるのだと思はれます。

 と云ひますか、兩側、良い感じの林で素敵であります。

 併し最初の勾配、自轉車では結構キツかつたでありますよ。
 して、丁度此道が町境に成るのでありますが、右手が市貝町大谷津で、左手が南那須町曲畑であります。

 と云ひますか、此處本當に昭和五十年代半ば迄現役だつたのでありますか。

 之では如何にも想像出來無いのでありますが。
 車止が現れました。

 結構奧まつた處に在るのは、若かして整備性を考慮しての措置なのでせうか。
 當然、彼方に行きます。
 此曲り具合の儘擴幅されて居りましたら、わくわくが止ら無い道だつた事でせう。

 で以て、市貝町に入ります。
 ううむ、ゼブラゾオンは何かの名殘なのでせうか。
 若かしますと、最初は飾りで作つた物の、何故か乘上てアレなのが後を絶た無いので、仕方無く現道側にガアドレイルを附た、と云ふのがオチでせうか。
 と云ふ感じで現道と合流致します。
 【現在地】

 扨、多分此處からが栃木縣道六四號宇都宮向田線中、一番線形が變更されてゐる箇所だと思はれる部分であります。

 まあ、四の五の言はず進めるのでありますが、不取敢、先づは舊道側から辿つて行きませう。

 と云ひつつも輕く蘊蓄なのでありますが、舊道は地圖を見ますと昭和十五年には未だ完成して居らず、昭和廿一年の航空寫眞では確認出來る、と云ふ道であります。

 左手に二本分岐する部分も、多分平場に成つてゐる邊は舊線形部分、則ち舊道部分だと思はれます。

 側溝の進み具合から見てもさうでありますよね、多分。
 斯う云ふ感じでありますしね。
 奧の新入防止柵が置かれてゐる部分が其跡であります。

 暫く前は此處は閉鎖されて居りませんでしたが、もう、山道でありますから御察し下さい。
御蔭で誰もが休めた場所が閉鎖の憂き目に遭ひました。
 自動車が入ら無く成つた途端、植物が侵食し始めてゐる樣であります。
 嗚呼併し此處、團栗が一杯落ちて居りますよ。

 鹽谷町初め、餌不足の地域の熊が見たら大喜びでしたでせうに。
多分。
 唯此處、現道の線形に戻る邊で、何故か現道側に繼目が在るのであります。

 最初は現道側つて片棧橋にでも成つてゐるのかなと思つたのでありますが、輕く確認して見ましたがさうでも無ささうでありました。

 併し之が如何見ても橋梁の伸縮裝置でありますよね。
之が一體如何云ふ事なのか謎の儘なのであります。
 【現在地】

 謎を殘しつつ進む事百米程、舊道は右に分岐致します。
 ほつとする幅員であります。

 其と、勾配は結構緩かであります。
 【現在地】

 如何やら舊道は尾根を避け、其先端迄來てからぐるりと囘り込む樣であります。

 して、此方右手から合流する道でありますが、地圖を確認致しますと、上記、七番目の冩眞のゼブラゾオンの少し手前、ゴルフ場へ續く道から分岐してゐる道の樣であります。
而も其は明治時代の地圖にも描かれてゐる道でありました。

 ううむ、だつたら此方を擴幅して利用すると云ふのもアリだつたのでは無いか共思つたのでありますが、各戸の利便性等を考慮の上、 之の合流地點から先を向田線に格上して使ふ樣にしたのだと見受られました。

 【其五】に續く。

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