宇都宮市川向町 東北本線 水戸北街道架道橋

2674年 1月 14日 探訪

 扨、今度は現道側を見て行きます。

 まあ市街地に之だけの通りを通すのは色々と大變だつたのでは無いでせうか。
其苦勞の甲斐有つて宇都宮市内でも重要な通りに成つてゐると思はれます。

 因に、何時もの樣に眞正面からの寫眞が無いのは、此手前は常に混んでゐる、右左折車線を含て五車線の道路だからであります。
其な事をしよう物なら大顰蹙且つ直に轢かれて仕舞ふでせう。

 だから、であります。呵呵

 扨、手前側、高欄、と云ふ依り何と呼ぶのでせう、手摺で良いのかな、まあ良いや。
其最初の部分、鐡管の組方と云ふか入つてゐる位置が分る樣な具合が興味をそそられます。

 と同時に對向車線側、如何すれば彼の位置の柱の上部が碎けると云ふ器用な事が出來るのか、不思議で成りません。

 併し一寸、水戸北街道が單成る水戸街道に成つて居りますし、水戸北街道架道橋では無く簗瀬アンダーと表記されて居りますが、 之が時代の流れと云ふ事で宜しいのでせうか。
 扨、唯一見通しの良い寫眞は之でありますかね。

 斯うして見ますと、手摺の柱、結構補修されて綺麗に成つてゐるのが多いのでありますね。

 まあ、左側は分ります。
側道に成つてゐるので打當つたりと云ふ事も有るでせう。

 唯、何故草地に成つてゐる此方側の柱迄綺麗に成つてゐる部分が有るのかが手荒く疑問なのであります。
其共、其は考へ過ぎで、單に經年劣化と云ふ事で補修されたのでせうか。

 して、さう、此方側の桁は混凝土なのであります。
 此處、今囘は徒歩で來ましたから此松の木の風情有る眺めや圓く詰れた石垣に目を樂しませて貰えましたが、 自動車でアンダアを走つてゐては一切氣附無いと云ふのが手荒く勿體無い所であります。

 さう、今迄拙は東西何方の松も氣附無かつた物でありますから、今囘新鮮な驚きでありました。

 でも、もう此景色もそろそろ見納めなのかも知れません。
 其圓く積れた石積部分と、東京方面側の橋臺部分であります。

 手摺、と云ふか轉落防止柵と云へば良いのでありますかね、其は橋臺部分迄しつかりと附られてゐる樣であります。
 東側へ遣つて來ました。

 側道からの自動車が合流し易い樣、見通しが利く樣に柵が或る程度の位置で終つて居ります。

 まさか後年に成つてからの措置と云ふ事では無いとは思ひますが、何と無くの不自然さを感じますから、本當の處如何なのでせう。

 何と無く路盤の反射鏡は當時物の樣な氣は致しますが、此處迄混凝土を伸ばしてゐるのも不思議でありますし、 道路側との段差が出來る限り埋られてゐると云ふのも不自然であります。
 嗚呼、さうさう、是であります。
柱に埋込れてゐる反射鏡、今の所謂リフレクタアと違ひ昔は之でありましたよね。

 いやあ之は懐かしい。
手荒く久し振りに見た樣な氣がします。

 と云ふ事は、當時から斯うだつたと云ふ事なのでありますかね。
何か鐵管の大きさが分つて仕舞ふのは如何なのかと思つて仕舞ますが。
 して、そろそろ肝心の架道橋部分でありますが、東側には其々に工事銘板が取附られて居りました。

 側道側、引込線の橋脚を見て成程と何か納得であります。
端の抑へが無いと、當然桁は落ちて仕舞ますものね。

 其では工事銘板、東京方面側が見て行きませうか。
 先づは橋臺部分からであります。

 成程、ほぼ一年近くを經て完成してゐるのでありますね。
 次いで桁の部分でありますが、當然基礎に關する部分の記述は御坐いません。
 此方は通りと側道を隔る部分の物であります。

 まあ、東京方面と同一の記述であります。
 殘るは此方、側道の宇都宮驛側の銘板のみでありますが、其前に、翼壁は混凝土かと思へば、其から先に少し石積が在り、 其横には之、何でせう、水路か何かでせうか。

 まあ、ああ云ふ部分もきつと國鐡の所有地なのでせうね。
 先づは橋臺側でありますが、此方は基礎根入が一米半程違ふ事に成つて居ります。

尤も、掘下る程の事でも無かつたので、其處迄打込必要性が無かつたと云ふ事でありますかね。
 桁部分の表記は變らず同樣に、と云ふ處であります。

 併し此處、水戸北街道架道橋も車線が半減する事から澁滯の名所と成つて仕舞ひ、擴幅の計畫も有るとの事であります。
便利に成るのは喜ばしい事でありますが、側道や舊道の扱ひ、其に素敵な松は如何成つて仕舞ふ事なのでせう。

 せめて松だけは勿體無いので、別の所に移植して長く生かして欲しいな、と拙は思ふのでありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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