河内町下岡本-白澤 高嵜製紙專用線跡ト汽車會社國鐵岡本分工場跡

2672年 1月 16日 2675年 12月 8日 探訪

 【現在地】

 高嵜製紙專用線は大正十一年開設、昭和五八年に廢止された工場專用線であります。

 航空冩眞を見てゐました處、其途中に引込線らしき物が在るのを昭和廿二年の冩眞で確認出來たので少し調べて見たのでありますが、 開設時期は不明乍汽車製造株式會社が工場を設置し、戰時中は國鐵大宮工場の疎開を目的として岡本分工場が設置され、 戰後は大宮工機部岡本工場と成り、餘剩機關車の留置及解體場所として利用されてゐた、と云ふ事の樣であります。

 但し昭和卅年代の冩眞に成りますと此工場跡、既に森に還り始まつてゐますので、經年數を考へますと何れ位遺構が確認出來るか不明でありますが、 まあ、不取敢は探索して見ませう。

 冩眞は、國鐡の下り線から分岐する邊りを見てゐます。
右手の混凝土擁壁は現役當時の姿其儘であります。
 此處は一昔前なら國鐵の驛構内でありますから、立入る事は無斷でしか出來無かつた位置に堂々と立入る事が出來ると云ふのは感無量でありますが、 當然の如く遺構は見當りませんでした。

 唯、若しかすると柵の支柱が當時の枕木かなと推察出來る程度でせうか。

 氣に成りましたのは、右手の土手、現役當時は丁度プラツトホオム程度の高さで木製の擁壁に成つてゐたのでありますが、何時の間にか斯う成つて居りました。
多分再開發等の關係でせうか。

 專用線は右の土手に沿つて國鐵から離れて行つて居りました。
 轍で一應、其線形の名殘りが分ります。
 でありますが、素直に準つて進まうと致しますと、既に宅地化に依り線形は消失して居ります。

 正直、まさか此處迄開發されるとは露共思つてゐ無かつたので、斯う成る前に來てゐれば良かつたと思ふのでありますがまあ、仕方が無い處であります。
 と云つても直ぐに發見出來ました。

 此の部分だけが遊歩道化される以前の雰圍氣を殘してゐるのかも知れません。
が、何と云ふ複雜怪奇な開發具合なのでせう。
道路を如何し度いのか良く分ら無い感じであります。

 之だから岡本つて複雜で、正直、車では餘り通り度く無い處であります。
 交叉する栃木縣道一五七號線を越えますと、愈々本格的な遊歩道化した高嵜製紙專用線跡であります。

 まあ御覽の通り面影は皆無なのでありますがね。
 現在は「ふれあい通り」と命名されて居ります。

 以下省略。
 栃木縣道一五七號線との交叉點から進む事四百米程度でせうか、此方の某工場に在つた引込線の部分が其儘殘されて居りました。

 因に、反對側のバス會社の敷地に痕跡は皆無でありました。
 奈坪ニウタウンを過ぎますと、森の中の平凡な遊歩道と云ふ感じで進みます。
 でありますが、少し手前、此公園の少し手前邊りから右手に分岐してゐたのが國鐵大宮工場の疎開先、岡本分工場への引込線であります。

 大凡此四阿邊りだらうかなと思つて冩眞を撮つたのでありますが、も少し手前、引込線の在る工場の裏手の交叉點邊りからが分岐だつた樣であります。
 【現在地】

 多分此邊りの森へ入る道が當時の線形跡なのかなと思へ無くも無いので、少し入つて見たいと思ひます。
 嗚呼、線路にしては曲率がきつ過ぎますかね。

 と云ひますか、早々に土盛りと成つて居りますので終了であります。
 ううん、之では見るべき物は無いと思はれますし、多分違つたのかも知れません。
其邊りの判斷が正直、附難い程に變貌してゐると思はれます。

 事實、もう宅地化が隨分と進んで居りますので、餘り周圍を見渡してゐると不審者と思はれさうでありますので、早々に引返しました。

 唯、何と無くでありますが、前方、眞直ぐ森の中へ向つて木々の間が空いてゐる樣な所も在りますので、若しかしますと"さう"なのかも知れませんが、 既に廢線歴六十年以上でせうから、痕跡を求めるのには無理が有るのかも知れません。
 でありますので、一旦本線()へ戻つて所々に在る斯樣な小路から森の中を見て行かうと思ひます。
 現役時代には斯う云ふ道にも四種踏切は在つたのでありますかね。
 ううん、之は判斷に惱みます。

 何と無く廣く成つてゐる部分が散見されますので、若しかすると斯う云ふ部分が何か建物が在つた所なのかも知れ無い、 とは思ふのでありますが、如何なのでせう。

 其と、御覽の樣に何と無くバラストが敷かれ線路部分の盛上つてゐた場所であらう樣な部分が在るのでありますが、ううん、分りません。
 建物の基礎の混凝土部分が殘つてゐると云ふのをネツト上で見たのでありますが、拙には發見出來ませんでした。

 多分君は關係無いよね。呵呵
 と云ふ事で何の結果も出せぬ儘專用線に戻りましたが、森を拔けると直ぐに製紙工場と成りまして終點であります。
 終點であります。
今は王子板紙と云ふ社名に成つてゐるのを初めて知りました。

 廢止後も暫くは此横斷歩道部分に線路は殘つてゐたのでありますが、十數年程前でせうか、色々と工事してゐた序でに撤去されて仕舞ひました。
 白澤街道に出る手前にふれあひ通りの案内板が在るのでありますが、專用線の歴史に觸れる樣な物は一切御坐いませんでした。

 も少し觀光的な色合を出して呉れても良い樣な氣も致しましたが、まあ此な物なのでせう。

 因に、拙は專用線が現役時代に何度かデイゼル機關車TD3が走つてゐるのを見た事が有るのでありますが、晩年には餘り專用線自體使用してゐ無かつた樣な氣が致しました。
まあ今更乍に當時を思ひ出して訪ねて見たのでありますが、意外と早く鐵道跡とは感じさせ無い程に變貌する物なのでありますね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る