茂木町小井戸 未成國鐵長倉線 栃木縣道廿七號線架道橋

2673年 4月 9日 探訪

 以前から存在は知つてゐましたし、もつと遺構が殘つてゐる時に茂木驛近邊も通つてゐましたので別段氣にも留てゐ無かつたのでありますが、 近年茂木驛近邊が可也開發されて仕舞ひ其跡も分ら無く成つて來ましたので、何時かは見て措くかと思つてゐた處でありました。

 でありますが、まさか違ふ目的の場所へ向ふ途中、突然目の前に現れるとは露も思つてゐませんでしたので、下調べもほぼ無い儘に輕く探索致しました。

 結構有名物件でありますので、其氣に成ればインタアネツト上で經緯等は簡單に調べられます。
と云ふ事で、拙的には道路的な部分からだけでまあいいかな、と云ふ感じで進めて行かうと思ひます。

 不取敢戰前の未成物件なのでありますが、昭和十五年の地圖では既に下野中川驛の豫定地迄もが描かれてゐる事であります。
勿論、其後の地圖では何事も無かつた樣にすつかり消えて居りますが。

 併し之、ぱつと見に一瞬、何處かのバイパスか高速道路でも出來たのかと見紛ふて仕舞ひましたよ。
 但し此形が戰前當時の儘共思へ無い樣な感じも致しますが、態々手直しする位でありましたら開削するでせうから、其儘と云ふ事で良いのでせうか。
此處だけ中央線が引かれてゐ無い事でありますし。

 石積の擁壁も含め、當時の儘と云ふ事で良いのでせうかね。
 不取敢左側の小路から登れさうでありましたので登り、茂木驛方面を眺めます。

 如何やら丁度、此邊りが後郷驛の豫定地だつた樣であります。

 と書かれてゐる處が多いのでありますが、昭和十五年の地圖では那珂川を渡る迄に描かれてゐる驛は一つでありまして、 其は此處依り先の河合地區に在り、多分其が下野中川驛の豫定地だつたのでは無いかなと思ふのであります。

 でありますので、拙的には後郷驛の豫定と云ふのは些か怪しいのでは無いかな共思へるのであります。
茂木驛からの距離も含めまして。

 因に、も少し先に行きますと隧道が在るのでありますが、今囘はすつかり忘れて居りました。
 築堤の上から東側を望むと、見晴し最高であります。

 嗚呼、明かに目前に栃木縣道廿七號線の舊道部分が在りますね。
而も橋も在りますね。
復今度でありますね。呵呵
 西側であります。
 築堤上から那珂川方面を望む。

 軌道豫定地が道路と電線に挾まれてゐると云ふのが、如何にも未成物件と云ふ感じであります。

 併し之だけの盛土、結構多いでありますから工費もアレだつた事でせうに。

 因に、直ぐ左手に茂木町の水道施設が在るのでありますが、此築堤上も何かに利用されてゐる樣であります。
 隧道も含め、も少し歩つて見ようかな共思ひつつも、實は自動車に施錠もせずに見て居りますので、一先づ此處だけで終了であります。
 斯うして内部を見ますと、如何云ふ風に分て施工されたのかが良く分ります。
 此先、那珂川手前迄は建設されてゐたらしいのでありますが、何だ彼だで工事は中止され今に至ると云ふ事でありますね。
まあ、開通してゐたとしましても、分割民營化前後の頃には赤字削減で眞先に廢止對象に成つてゐたでせうね。
多分。

 併し此方長倉線、茂木驛裏手の東芝の軍需工場と相俟つて、多分に軍事目的が大きかつたのでは無いのかなと推察致します。
さうしますれば、水戸や日立への物資輸送は大いに捗つた事でせうから。

 でも何と無く、此處を蒸氣機關車が走るのを見たかつた樣な氣は致します。
多分、下館-茂木間依りも絶好の撮影場所に成つてゐた樣な氣が致しますもの。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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