南那須町田野倉 國鐵烏山線 烏山街道架道橋

2673年 10月 8日 探訪

 大金驛の北方五百米程の場所に在る架道橋であります。

 現在では架道橋の手前に信號機と停止線が移動しましたが、其昔は先の交叉點部分に在りましたので、正直、複數臺自動車が連成つた時には如何するべきか、 又、信號機の色が如何成つてゐるかが惱み處の場所でありました。

 でありますが、御覽の樣な狹窄區間と成つて居りまして、舊道化した處とは云へ隘路なのは間違ひ無く、如何やら取壞しも含む改修計畫が持上つてゐる樣でありますので、 其姿を冩眞に收める事に致しました。

 では此方、西側から見て行きます。
 流石烏山線開業當初からの物件、鋲留めが趣き有つて素敵であります。

 桁下制限高の書かれた鐡骨、當然、昔は黄色と黒の縞模樣でありましたが、今の時代にそぐは無いのか、黄色一色に塗直されて居りました。

 して、元々中央に制限標識が在つた筈でありましたが、今は免許を保有してゐるにも關はらず、誰も標識の讀方を知ら無いので文字にしたのでせうね。

 と云ふか、否、以下省略。
 茶色い部分、何か溶接して其儘未處理なのでせうか。
橋臺も所々缺けや補修の跡が有りますね。

 して、思ひましたのは、河川の橋梁とは違ひ、"何か"が直接道路側に落ち無い樣に一應配慮されてゐるのだなと、桁から伸びる受皿的な部分を見て思ひました。

 併し丁度汽車が通り掛かつたのでありますが、JR色と本當の國鐡色の混合編成とは、結構理想的かも知れません。

 と云ひますか、キハ40形もそろそろ廢止なのでありますね。
今度はハイブリツト型ださうでありますね。

 まあでも拙、キハ40形は疎かキハ20形時代にも乘つて居りますので未練は御坐いませんが、何と無く一寸寂しいのは歳なのでありますかね。

 デイゼル音がもう聞け無く成つて仕舞ふのか。
時代、でありますね。
 竣功は、もう散々塗重ねられて居りまして判讀はほぼ不可能に近いかと思はれます。

 但し、文字の形から、多分に大正參年だらうなとは思はれます。

 でありますが、其以外は讀む事諦めました。
 空頭標。

 新字體"縣"の表記である事から、意外と近年に附られた物なのでせうかね。
螺旋もプラスでありますし。

 協定番號と協定年月日が書かれてゐ無いのでありますが、まあ、道幅確保の爲に近々架替られますので、どうでも構は無いと云へば構は無いと云ふ事でせうか。
 混凝土造なのでありますが石積みを模した樣な意匠の橋臺、中々に手が込んでゐて素敵だと思ふのでありますが、そろそろ見納めかも知れ無いのが殘念であります。

 まあ是も時代の流れでありますので仕方無い事なのでありますが、不取敢まあ、斯うして寫眞に收められましたのでまあ、滿足であります。
 さうして後日、前囘撮り忘れた東側からの姿も冩眞に撮つて來ました。

 此方側には保線作業の爲でせうか、手摺と云ふか欄干と云ひますか、さう云ふものが設けられて居りました。

 併し大正時代には此幅員で十分と云ふ想定だつたのでせうが、今や日本全國津々浦々、自動車無しには生活が成立し無い時代に成つて仕舞ひましたので、 流石に之ではもう限界なのも頷けます。

 と云ひますか、逆に良くまあ今迄此儘で供用して來たなと逆に感心する位であります。
バブル時代には消えてゐても不思議では無かつた樣な氣も致しましたから。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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