氏家町氏家 昭和四十年前後ノ道路構造物

2672年 12月 11日 探訪

 偶には當然の樣に在る道路構造物にも着目して措か無いと、氣附ば無く成つて仕舞ひ後の祭りと成りますので、現在の記録として冩眞に收めて措かうと思ひました。

 否、決して手拔き探索と云ふ譯では御坐いません。

 して此方、陸羽街道と會津西街道、國道四號舊道現栃木縣道一八一號線と通稱大宮街道との分岐點に在る安全地帶であります。
もう半ば遺構と云つても差支へ無い状態でありますが、今でも一應現役物件であります。
多分。
 卅年程前迄は二つ程反射鏡、と云ふ依り反射レンズの集合體と云ふ樣な物が殘つて附いてゐましたが、時と共に何處かへ消へて仕舞ひました。
其に、黄と黒の塗別も時代と共に風化して居りますが、辛じて如何云ふ塗分だつたか分り・・・ませんね。

 此安全地帶が作られましたのは東京オリンピツク以降との事でありますので、昭和四十年頃の物件だらうと思はれます。
 裏側からでありますと、も少し黄色の部分が微かに殘つて居ります。

 中央の標識臺には木製の標識柱の根元だけが殘つて居り、確か四十キロ制限の標識が附いてゐた筈だつたと思ふのでありますが何共云へません。

 まあ、古い冩眞見れば答へ一發なのでありますがね。
 木の柱に對して鐵筋の入れ方が興味深いでありますが、後から一度上部は建替へられてゐ・・・ましたかなあ。
一寸不明であります。
 雨滴混凝土を穿つ。

 此方、昔は緑色をした鑄物製の押釦式信號機が附てゐましたが、其後時差式信號機に變更されました。

 でありますが、此處數年で僅かな時間の信號も待て無い者共からの苦情なのか、大宮街道側が感応式に變はり、復新たに押釦式信號機が附ました。

 其でも信號も何も見てゐ無い運轉手が結構多く、危險な交叉點であります。
 因に、手前側の深い穴が當時の信號機からの雨滴で穿たれた穴であります。

 今見ると型枠の跡が良い味出してゐるなと思へます。
 行政が對處して呉れ無いからと、住民自ら作つた側溝の蓋。
形はバラバラでありますが、鐵筋入りでありますので堅牢な代物との事であります。

 矢張り安全地帶と同時期であります。
 今では餘り御目に掛る事が少く成つたと思はれる縁石。

 今の味も素氣も無い意匠依り道路らしくて素敵だと思ひます。
と云ひますか、結構凝つた造りだつたのでありますね。
 歩道の下が用水路に成つて居り、其金網も今では懐しい型に成りつつ有る物かと思はれます。

 今ではもつと目を細かくして居りますのは、流行のロオドバイクのタイヤが嵌ら無い樣にとの配慮からでせうか。

 だとしますれば、遣るなあ行政、と云ふ感じであります。
 此方は馬場地内でありますが、矢張り當時の歩道であります。
何故か此方の高校の横だけが一段高く成つてゐるのでありますが、總混凝土作りで部分的に同じ形をした蓋が在る、と云ふ感じでせうか。
下は暗渠に成つてゐる用水であります。

 此邊りは平成一桁年代邊り迄は道路も當時物の混凝土舖裝の儘でありました。
アレつて手荒く長壽だつたと思ふのでありますが、維持管理や騒音等々色々とアレで大人の事情から現在の透水性舖裝に變更された樣な氣が致します。

 唯、透水性舖裝には當初成ら無い豫定でありましたが、地域住民の爲にとさう成る樣相當盡力して呉れた方が居りますので、さう云ふ功績は忘れ度く無いと思ひます。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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