鹽谷町大久保 市ノ堀用水ト草川用水ノ分水工

2673年 6月 4日 探訪

 氏家町押上地區から鹽谷町大久保地區に入つて直に、現在の分水工が御坐います。

 でありますが、此處に來る丁度良い道が無く、辿着くのも中々難儀な場所であります。
尤も、色々な點で簡單に來られてもアレでせうから、其で丁度良いのかも知れません。

 併し農繁期に來たものでありますから、水量、水勢共にはつきり云つて怖い位であります。
 因に、元々は市ノ堀も草川も別々の用水だつたさうであります。

 其が昭和廿八年鬼怒川中部土地改良區連合を發足させ、と云ふか其詳細は解説されて居りますペイジが御坐いますので割愛致しますが、 要は其々別個に鬼怒川から取水してゐたのを止め、昭和四十一年に現在の形に成つたものでありますから、 現在地圖で表記されてゐる市ノ堀用水が正しいと思ひ、當時の事を色々訊き度いと思つて地元の年配の方と話しをしても、當然の如く噛合ひませんでした。

 さう、敢て云ひますれば、此處から下流が市ノ堀用水でして、此依上流は松川なのであります。
其は改良された現在でもさうなのでありまして、是からもずつとさうで在り續ける筈であります。

 て云ふか此處、本當に水音が凄くて及腰で寫眞撮つてゐました。
 橋としての利用頻度は少なさうでありますが、其依も中央の構造物の堅牢さうなのが見所であります。

 唯、謎でありますのは其堅牢さうな構造物の左側、一體何が打當つて缺けたのでせうか。
 左が草川用水、右が市ノ堀用水であります。
流石に市ノ堀用水の方が若干廣いでありますね。

 併し彼の眞中の雜草、流れて來て引掛つてゐるのでは無く、彼處に生えてゐるから驚きであります。

 何か、自然の強さを改て感じました。
と云ふか、土、有るのでありますかなあ、彼處。
 何かプラレ◯ルの樣だとか思つて見たり。

 嗚呼、其云ふならモノレイルの樣でありますかね。
 橋脚に成る部分の先端は斯う云ふ形状、所謂舟形でありますね。
補強の爲に鐡板が附られてゐるのでありますかね。

 其と仕切板が入りさうな窪み、堰として使ふ事も有ると云ふ事でせうか。
 後側は何故かあつさり小判形であります。
今流行のハイブリツトと云ふ事、では無いでありますね、はい。
多分さう云ふ細かい規程が出來る以前の物だと云ふ事、と云ふだけだと思ひますが。

 寫眞で見て、初て意外と高低差が在る事に氣附たと云ふのは内緒であります。
 錆と色褪で何れ位の水量と讀めば良いのか判斷に惱みますが、落ちれば三途の川に早變り、と云ふ事だけは確實なのは分ります。

 併しまあ、戰後の國營事業で變り行く日本の風土の一端を身近でも垣間見られる施設だなと思つた次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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