矢板市木幡 田中橋

2674年 3月 18日 探訪

 此方は栃木縣道二四二號線が内川を渡る田中橋であります。

 昔からの道筋でありまして、ずつと以前から架橋されてゐる場所でありまして、此方が河川改修された頃、新に架橋された現役物件であります。

 ハイカラな感じの親柱が結構新しい橋かと思はせますが、親柱の内側に高次銘板が附て居りますのが確認出來ましたので、其也に歴史的物件だと思ひ、しつかりと觀察致しました。

 では此方、右岸側から見て行き度いと思ひます。
 田中橋。

 立派な石造の親柱であります。

 併し之だけの大きさの石、運ぶのも金額的にも大變だつたのでは無いでせうか。

 其共、彼方此方の物と同樣、表面に貼つてゐるだけなのでせうか。

 併し、側道橋との間、少しの隙間もきちんと柵をしてゐると云ふのは、直傍に小學校が在るので兒童の安全の爲でせうね。
 昭和四三年五月竣功でありますね。

 あ、之つて花崗岩でありますかね。
何か色合的に違ふのかなと最初は思つて居りました。

 して、さう、親柱に工事銘板が取附られてゐる橋では可也晩年の橋では無いかと思はれます。
 内川。

 何か、斜の線が模樣の樣ではありませんか。
結構御洒落ぢや無いかと思ひます。

 其と、此年代で全て金屬の高欄と云ふのも先進的だつたのでは無いかなと思ひます。

 併しまあ、短い柱が一本立つてゐるのは、矢張安全對策なのでせうね。
 して、此方もう一つの特徴は、拙が見た中では此規模、斯う云ふ方式の鈑橋の中では結構古い部類なのでは無いでせうか。

 大抵斯う云ふ年代で二徑間の橋と云へば混凝土桁だと思つてゐたのでありますが、鈑橋でありましたのには驚きました。

 さう、此年邊から徑間を伸す爲に混凝土桁から鐵桁への切替が始まつたのかなと思へば、案外貴重な物件なのかも知れません。
良く分りませんが。
 排水桝。
 橋臺部分。

 斯う云ふ具合に連結されてゐるのは初めて見たのでありますが、耐震補強と云ふ事でせうか。

 手前の歩道橋と本橋の下が石積なのも、さう云ふ年代の物だからでせうか。
奧の歩道橋の下は塊團積に成つてゐるのも、さう云ふ年代の違ひなのでせうね。
 全て鐵材で作られたモダアンな高欄は、桁毎に分割されて居ります。

 では左岸側へ移動致します。
 田中橋。

 如何やら左右兩岸で對稱の銘板の樣であります。
之も斯う云ふ年代ならではでありますね。

 併しさう、親柱の筋、丸で模樣の樣だと思ひましたら、實際にさう云ふ模樣なのでありますね。
中々御洒落ではありませんか。
 勿論、工事銘板もけちらずにちやんと附て居ります。
 内川。

 此方の親柱は綺麗な状態を保つてゐる方でせうか。
模樣もはつきりと分りますね。
 扨、では右岸側へ戻りました、簡單に側道橋を見て行きませう。

 下流側の此方は見るからに昭和四十年代後半と云ふ感じの高欄が附られて居ります。
 成程、矢張昭和四七年竣功でありましたか。
 鈑橋にパイル形式の橋脚も"らしい"でありますね。

 と云ひますか、田中橋の橋脚の頭の部分の大きさに感心して仕舞ひます。
 此方は上流側の物件であります。

 高欄もずいぶんとモダアン且つ高目に變貌して居ります。

 其と、橋臺部分の造り等も下流側とは隨分と違ふ物でありますね。
 廿一世紀物件でありますか。
 鈑橋なのは一緒でありますが、橋脚の造りが全然違ふ事に驚きであります。

 して、何故廿一世紀に成りもう一本歩道橋が架られたのかなと思つたのでありますが、若かして近くに温泉施設が出來ましたので、 其處へ出掛る人が多く成つた爲の安全對策で、なのでありますかね。

 其と、此方田中橋、御覽に成つた樣に中央線が御坐いませんから、若かしますと縣道卅號線バイパスとの兼合で擴幅、架替何て事にも成兼無いので、 今囘冩眞に撮つて措いて良かつた何て事に將來成るかも知れません。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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