矢板市下太田 江川橋

2673年 10月 21日 探訪

 此方は下太田橋依り三百米程東側、と云ふ書き方依り、栃木縣道卅號線下太田交叉點を曲り、同二七二號線に入り寺山ダムへ向はうとして直に渡る橋であります。
と書く迄も無く、其交叉點が冩つて居りますが。

 まあ、橋自體は一徑間の桁橋でありますが、一寸個性的な風貌をしてゐると思ひます。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 江川橋。

 此處、大江川と云ふのでありますが、江川橋とは何でなのでせう。

 何と無く撫肩で控目な親柱、と呼んで果して良いのでせうか之、が可愛いらしいであります。
 大江川。

 ほうら、河川名は斯うでありますのに。

 此方は何故か撫肩には成つてゐ無いでありますね。

 まあ、人間が手作業で造つてゐれば當然の事なのであります。

 逆に云へば、何でも異樣に規格に拘つてゐる現在の方が異常だと思へ無いのは危險だと個人的には思つて居ります。
 高欄は混凝土管を二本使用しました、如何にも昭和卅年代や西暦1960年代を彷彿とさせる意匠であります。

 併し、此處迄高欄と親柱が分離せずに一體としてゐるのも、色々と模索した中から生まれた提案だつたのでせうか。

 其依りも、奧で二臺竝んだコンバインが素敵だとか、神社の切られた大木が勿體無かつただらうにとか、本來とは違ふ部分に思はず注目して仕舞ふのは性でありますかね。

 では左岸側へ移動致します。
 江川橋。

 まあ當然の如く左岸側も一緒なのでありますがね。

 併し之、車止が在ると云ふ事は、何臺も、何人も川に突撃してゐるのでせうか。

 と氣に成り一枚目の冩眞を見直しましたが、成程、幅員が狹まつてゐるので事故防止の爲なのかも知れません。
 大江川。

 多分之、路盤も竣功當初はアスハルト舖裝では無く、混凝土の路盤、と云ふか牀盤其儘だつたのだらうなと思ひます。
 成程、昭和四十年竣功でありますか。

 此年代迄の字體つて素敵でありますよね、手作りと云ふのが傳はつて來まして。

 何か斯う云ふ字體を見て居りますと、國鐡の試驗走行車兩内の寫眞とかをつい思ひ出しまして、分割民營化云々無ければ今頃、とか色々思ひ出して仕舞のであります。
 年代が示す通り、未だ西暦1965年では一徑間の桁橋は混凝土製でありますね。
之が鐡桁に成りますのは1970年前後に成つてからの事でせうか。

 因に、ぱつと見から單純桁とかスラブ形式と云ふ構造なのだらうと推察致します。

 其と不取敢、親柱と高欄への考へ方が獨創的であり、意外と見應への有る橋でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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