宇都宮市駒生町 舊鎧川橋

2674年 11月 11日 探訪

 此方は地元の元航空兵だつたと云ふ爺樣に訊きました處、大谷街道の舊道ださうであります。

 其舊道の鎧川に架る橋が此方であります。
成程確に其也の幅員は有りますので、街道筋らしいと云へばさうであります。

 して、其意匠からしまして結構な年代物と推察されるのでありますが、實際の處は如何でせうか。

 では、此方左岸側から見て行きます。
 ええと、ううむ、是は混凝土の質感等からして、如何見ても後年に成つて全て作り直された物の樣な氣が致します。

 きつと當時物でありましたら何かしらの物が有つたと思ふのでありますが、無名の親柱と化して仕舞つて居ります。
 鎧川橋。

 此方側が當時からの物でせうね。
微に親柱に「鎧川橋」と直に刻まれてゐるのが判讀出來ましたし。

 直接文字が刻まれてゐると云ふ事は、戰前、而も昭和一桁物件の可能性が高いと云ふ事でありますね。

 では右岸へ移ります。
 昭和八年六月竣功。

 をゝ、來ました、久々に昭和一桁物件であります。

 と成りますと、昭和十年物も加へれば、大谷界隈で昭和一桁物件が之で三本でありますか。
間も無く姿川の昭和九年架設の大谷橋は架替されて仕舞ますが。

 まあ、何れにしましても、此方鎧川橋が此近邊での最古參と云ふ事でありますね。
手荒く素晴しいであります。
 まあ肝心な事は上流側で判明致しましたので、此方側は無名の儘でも良いであります。

 もうね、型枠の痕とか混凝土自體の質が違ふとか、全て許します。
自動車等のレプリカとは譯が違ひますものね。呵呵
 再び左岸側からでありますが、上流側から桁を見ると斯う云ふ感じであります。
所謂單純桁と云ひますか、スラブ形式と云つた類の主桁だらうと思はれます。

 其と、河川自體もほぼ改修されず、自然の儘に殘つてゐる樣にも見受られます。

 何か、他の地區を見たりしましても、鎧川自體未改修の儘の部分が大半の樣な氣もするのであります。
 改修されてゐるであらう下流側から見てみます。

 成程、何と無く高欄と云ふか地覆の部分と云ひますか、其邊から接いだ樣に見えますし、鐡管が水道の物では無く補強の爲の物に見え無くも無いと云ふ感じであります。
 して、川面を見てふと氣附たのでありますが、何か混凝土片が落ちてゐるのであります。

 若かして、兩親柱と高欄が其では無いかなあと思ふのでありますが、如何なのでせう。
流石に足掛りも無いので川面に降りて確める事は出來ませんが。

 しかし戰前物件、拙が命を賭して護り度かつた日本が見られて感慨も一入だつたのでありますが、其に呼應してか、大東亞戰爭末期、 航空隊で訓練中だつたと云ふ爺樣に話掛れられ、"あの時"の事や「次こそは」とか「もう一度」とか何だ彼だで一時間は足止喰つて仕舞つたと云ふ點でも、 手荒く印象に殘つた物件でありました。

 まあ、其話は手荒く面白かつたので別に苦では御坐いませんでしたがね。

 と云ふか爺樣、何時迄も元氣でな。呵呵

 以上、御附合有難う御坐いました。

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