宇都宮市錦一-錦二 大錦橋

2674年 3月 11日 探訪

 此方は 【宇都宮市上大曾町-錦三 大曾橋】 依り五百米程下流側、田川に架る大錦橋通りの橋であります。

 競輪場通りが昭和卅年頃に新設されたのと同樣、此方も同時期に新設された通りかと思はれます。
丁度良く見られる西暦1950年代の航空冩眞が無かつたのが殘念でありますが、昭和廿四年では確認不出來、昭和卅六年では確認出來る樣に成つて居りますので、 さう推察して確實だらうと思はれます。

 扨、ぱつと見に昭和四十年代前半頃の所謂規格橋の樣に見られますが、たつた十年程度で架替に成つてゐるのか、其共何か改修されての姿なのか、 じつくりと此方右岸側から見て行き度いと思ひます。

 因に、橋の中央から下流側が錦一丁目、上流側が錦二丁目であります。
 併し何故に讀みが"タイキン"なのでせうか。

 "オホニシキ"とか"ダイキン"では無い處に一寸不思議な感覺を覺えたのでありますが、さう、陸軍では大尉は"タイイ"、海軍では"ダイイ"と讀むのでありますが、 まさか命名した人は陸軍出身若くは陸軍好きの海軍嫌ひだつた人、と云ふ譯でも無いでありますよね。

 と、何と無く深讀みして仕舞ひました。
 基本的に橋には親柱、銘板共に四箇所全てに無いので橋名や竣功年を知る手掛りは皆無なのでありますが、まあ、通りの名前で自づと分ると云ふ物であります。

 高欄は所謂古ガアドレイルの初期型、且つ角柱でありますので、昭和四十二、三年頃迄の物と見てほぼ間違無いと思はれます。
但し袖ビイムは全て現在の物に交換されて居りますので、自動車等で戲る人が結構居るのでせうね。
 歩道に成る側道橋、此方下流側は昭和五九年の竣功でありますが、多分に上流側も同時と見て良いのだらうと思はれます。

 此方も一見古初代ガアドレイルの樣でありますが、取附螺旋を見れば現行の物だと云ふのが直に分つて仕舞ひます。

 但し柱に直附と云ふのが以外と云ひますか、袖ビイムの幅との兼合でせうか。

 でもまあ、上手く一體感を持たせて増設した物だなと思ひます。
 横から見ますと、三徑間の鈑橋であります。

 併しまあ、側道橋部分も上手く橋脚に附足し度なと云ふ感じで、手荒くすつきりと纏つて居りますね。

 おや、でも何か橋脚の中央部分、何か浮び上つた影と云ふか染みが其々に見られますね。
一體何でせう。
 ええと、之ば如何見ても橋脚でありますね。

 但し現行の桁に對しては些か狹いので、若かしますと現行の橋を架ける時に現在の幅に迄廣げられ、側道橋部分は上部だけ張出す樣に附足されたのは當然としましても、 其基本骨格として其儘利用されてイると云ふ事でせうか。

 其がずうつと浮び上り、今でも元の姿が分ると云ふ事だと推察致します。

 て、其はさうなのでありますよ、たつた十年程度で架替と云ふのが大曾橋でも疑問でありましたし、此方も何か變だと思ひましたから。

 多分でありますが、水害か何かで桁だけ消失して仕舞つたので、橋脚だけは再利用して架設されたと云ふ事なのかと思はれます。

 一應、昭和卅年代前半でありましたら混凝土の桁橋だつたでせうから。
 橋臺部分であります。

 橋脚でも思ひましたが、後年に成つてから耐震補強か何か、尖つてゐる部分等は増設されてゐるのでは無いかと推察致します。

 牀版の補修等、御疲れ樣であります。
 して、此方は側道橋の排水桝であります。
 さうして此方は道路橋側の排水桝であります。

 流石に時代を感じさせると云ひますか、鑄物のしつかりとした排水目皿が附て居ります。

 併しまあ、初代橋の橋脚が斯う云ふ形で利用されてゐると云ふのも面白いなと思へる物件でありました。

 矢張何處にでも歴史は埋れてゐると云ひますか、其積重ねが今を支へてゐるのだなと再認識した次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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