宇都宮市川俣町 古川橋

2674年 9月 9日 探訪

 栃木縣道一五七號線の御用川に架る昭和橋から西進する事約七百米程、御用川の支流、とは云へ、 場合に因つては御用川其物と呼ばれる河川に架る橋であります。

 此處からも少し上流側に東日本鐵道の遺構が在るのでありますが、其方では御用川とされて居りますし、まあ、抑々人工河川なのでありますから如何でも良いと云へば如何でも良いでありますし、 抑々人工だらうが自然だらうが人間の一應の便宜上で勝手に呼んでゐるだけであり、川は川でありますので所詮呼稱等如何でも良いとか以下省略。

 して、まあ、狹いのに交通量が多い爲、御覽の有樣であります。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行きます。
 嗚呼、頑丈さうな混凝土の柱が無く成り、半分はガアドレイルに變更されてゐる樣でありますが、其ガアドレイルも擦傷だらけであります。

 心に餘裕を持つて運轉しますれば斯樣な事には、ねえ。
 片側にだけ歩道が御坐いますが、此方、勿論後年に成つて増設された部分であります。

 其にしましても高欄、手荒く頑丈さうな造りであります。
 まあ多分、昭和四十年代頃に架橋されたのでせうが、當然竣功年度は不明でありますが、不取敢、昭和卅六年以降五十年迄の間なのは間違無いと思はれます。

 桁、歩道部分のも在りますので、單純桁なのかT字桁なのか分りませんね。

 では、右岸側へ移動致します。
 面白いのは、下流側は鐡棒が二本なのでありますが、上流側は一本なのであります。

 之は丁度曲線の關係で、傾斜が附てゐる所爲でせうか。
 何か痛々しいであります。

 何んなに安全策を講じても無理なのでせうね。
多分三世代分の反射鏡の變遷が在るのかと思はれます。
 正直、此位置で寫眞を撮るのも一苦勞でありました。
完全に自動車が來無い頃合をしつかりと待つてからでありましたから。

 して、全ての親柱の位置に銘板が無いのに何故に古川橋と云ふのだらうと云ふのが分つたかと云ひますと、近くの乘合バスの停留所名がさうだからであります。

 と云ふ事は、此御用川の支流の名前は古川であり、其處に架る橋だから古川橋と云ふのでは無いかなと推察した次第であります。

 きつと、舊橋時代には四本の親柱全てに銘板が在つた橋だつたのでせうね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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