氏家町向河原-上河内村下小倉 氏家大橋

2675年 12月 8日 探訪

 氏家大橋は氏家町と上河内村を結ぶ爲、且つ國道二九三號が鬼怒川を渡河する爲に架けられた橋であります。

 此地に本格的な架橋が爲されたのは、明治時代に日本鐵道の鬼怒川橋梁が架けられて以來の事でありました。
其迄は堤防を越えて河原へ降りてから、本流部分のみに架設されてゐた數本の假橋状の物で渡河してゐた譯でありますが、 御覽の樣に昭和卅九年、遂に本格的な橋梁が架橋されたのであります。

 して、此方の記念碑は元々左手に見える先に架けられた西進側の親柱の近く、丁度三角形の分離帶的な敷地の部分に道路に面する樣に置かれてゐましたが、 昭和五九年に交通量の増加と共に東進側も新に架橋された爲、此方の位置に移設されました。

 では此方、左岸側から見て行くと致します。
 現在では西進する一車線と成つて居りますが、元々は此幅員で中央線の引かれた對面通行でありました。

 勿論歩行者や自轉車が安心して通れるであらう筈も無く、大型車が來た時等はちやんと此方を見て避けて呉れよと、 或る意味神頼み的な氣持で渡つてゐた物であります。

 現在では路側帶部分が確保され、不取敢の安心感は出來ましたが、出來れば歩道部分として路盤依り一段高くして呉れる、 若しくは縁石を設けて呉れた方が尚嬉しい樣な氣が致します。

 高欄、元々は柵状の物でありましたが、近年の安全基準の爲か、ガアドレイルに後年に成つて變更されたのだと記憶してゐます。
 氏家大橋。

 如何にも戰後の大型橋梁に在りさうな意匠の親柱であります。

 或る意味門扉の樣で莊嚴な感じも致しますが、親柱本來の機能としましては如何なのでせう。
厚味的に別段一般的な親柱との違ひは大して無い樣な氣も致しますが、其處は其、大型橋梁を印象附るのも重要な役割、と云ふ事なのでせうか。
 其横には工事銘板が取附られて居りました。

 昭和卅九年三月には完成してゐた樣であります。

 流石に一等橋でありますね。
 鬼怒川。

 流石に痛みもほとんど無く、手荒く良い状態を保つて居ります。
 十徑間の鋼鈑桁、かと思つたのでありますが、良く見ますと桁が斜めに絞つて有ります。

 して、如何云ふ形式なのだらうと思つたのでありますが、多分鋼箱桁と云ふ形式なのでは無いかと思ひます。
 一寸下りて橋臺附近を見て見ました。

 路盤を支へる邊りの造型が力學的見地を感じさせて呉れて素敵であります。

 おや、桁にも工事銘板が附られて居りますね。
 其々微妙に表示が違ふのでありますね。
 下から覗いて見ました。

 何でせう、或る意味モノコツク構造的な物と思つて良いのでせうか。

 併し之、内部に水とか溜つたりし無いのでせうか。
 下に潛る爲に一寸離れた處迄行つたのでありますが、其處で斯う云ふ混凝土柱を見掛ました。

 一體何に使用する物なのでせうか。

 では右岸側へ移動致します。
 排水桝は斯う云ふ感じであります。

 橋に見合つた、結構大型の物と云つても良いのでは無いでせうか。
 氏家大橋。

 成程、何方も漢字表記なのでありますね。
 若しやと思ひ確認して見ました處、左岸側同樣此方側にも工事銘板が附られて居りました。

 此處から見ますと、立派な親柱の意匠が御分り戴けると思ひます。

 因に、路盤の繼目も改修され、當初依り小型化されてゐる樣であります。
 鬼怒川。
 其と、其傍の桁の上に在る地點標。
 堤防部分、立派な玉石積に成つてゐるのでありますね。

 其と、混凝土の構造物は何なのでせう。
一寸謎であります。

 國道二九三號も整備され、此氏家大橋も架橋された事に因り、氏家町で東西南北の道が交はる樣に成り、 奧州街道が通つてゐた時以上に交通の要所的な位置附に成つたのでは無いかと思ひます。

 宇都宮以北で鬼怒川を渡河する橋が出來たと云ふ事は、相當の恩恵を齎した筈であります。

 現に、もう一本架橋された譯でありますから。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る