鹽谷町上寺島 名称稱明橋 【其二】

2672年 11月 5日 探訪

 先程の名稱不明橋依り更に五百米程下つて來た處に架る橋であります。
ぱつと見には足場の鐵管で組まれてゐたり歪んでゐたりと初見の者を壓倒致しますが、良く觀察致しますと如何やら其だけでは無く、中々に深い歴史を感じさせて呉れる樣な雰圍氣であります。

 では此方、右岸側から觀察して行きませう。
 少し下流側寄りを見てみますと、古く成つた一本の木が橋脚まで載つて居ります。
如何やら元々から木橋だつた様でありまして、之が桁の殘骸なのでせう。

 如何やら四徑間の橋の樣であります。

 一本だけ飛び出してゐる横板が何と無く氣に成りますが、まあ氣にし無い様に致します。
 して、此方は左岸側に近い方でありますが、此方の方は古くからの桁も生きてゐる樣でありますし、何か、奧の橋臺部分と云ふか道幅と横板の幅が近いのでありますよ。

 若かして、其部分は活かした上に今の踏板を敷いてゐるのでせうか。
 此方が左岸側の橋臺部分であります。
石積の、何共可愛らしい橋臺であります。

 手前に在る木は、元々の桁の部分だつた物だと思ふのでありますが、撤去せずに其儘、補強的役割・・・は無ささうでありますが、何かの支へには成つてゐさうな感じではあります。
さうして、邪魔な部分は一應切つてはゐる樣であります。
 左岸側の橋臺方面から見た處でありますが、今の橋自體が應急處置的な姿なのでせうか、丁度眞中に架つてゐる譯では無ささうであります。

 其代り、横板はほぼ橋臺の幅の儘眞直續いてゐると云ふ感じであります。
 橋脚は尖頭型であります。
其特徴から致しますと、戰前物件、と云ふ處でせうか。
 其で以て、一箇所、丁度中間地點の橋脚が流出して居りまして、御覽の樣に修復されて居ります

其年代は何時頃なのでせう。

 唯、鐵管が錆びてゐ無い事等から、然程古いと云ふ譯でも無ささうな氣がし無いでも無いであります。
 して、實は最初氣附か無かつたのでありますが、此方が流出した橋脚でありました。
出てゐる三本の針金と云ふか鐵筋と云ひますか一寸不明な物は、木の桁を固定する爲の物の樣であります。

 扨、竣功年でありますが、現在の姿に成つたのは何時頃なのだらうと思ひ航空寫眞を見てゐたのでありますが、正直、分りませんでした。
因に、昭和五十年の航空寫眞ではきちんとした姿が確認出來ましたので、元々の竣功以來、時々は桁を更新しつつきちんと作られてゐた樣であります。

 まあ、上流側に自動車の通行可能な橋が在りますので、此方は人が渡れれば良いだけでせうから、此姿でも問題無いのだと思ひます。
其に、此方を作り直して車兩通行を可能にする依りも、別な處に新に建造されたと云ふのも、何か納得出來るのでありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

追記

 平成廿七年九月の關東、東北豪雨から二箇月程經過した十一月十七日、此方の橋の如何云ふ状況に成つてゐるのかと思ひ再訪して見た處、斯樣な有樣でありました。

 桁はすつかり流失して居り、橋脚も勿論流出して居りました。

 と云ひますか之、右岸側つて橋が在つた分水の抵抗に成つたからか、結構地面が刳られて仕舞つてゐるのでは無いでせうか。
 嗚呼、見るも無殘な尖頭型の橋脚であります。

 唯、斯うして見ますと、ほとんど川牀には固定されてゐ無かつた樣にも見受られます。
 全部で鐵管が四本、長さ卅サンチにも滿た無い程度を川牀に刺し、其を基に作られてゐた橋脚だつたのでありますね。
 左岸側の橋臺は殘つて居りますが、此方に人道橋が復活する事は有るのでせうか。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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