鹽谷町上寺島 名称稱明橋 【其一】

2672年 11月 5日 探訪

 西荒川ダムが出來た事に因り、今はダムの管理道に成つてゐる栃木縣道二七三號線の舊道側への分岐點の直傍、西荒川方面への分岐點が御坐います。

 其處から進んて行つた先に、今囘紹介する橋、と云ふか暗渠と云ふか、將又沈下橋と云つた方が良いのか何共拙には正式名稱が分ら無いのでありますが、 一昔前の山間部の道や林道では結構見掛たであらう橋が御坐います。
 はい、中々に良い雰圍氣であります。
上の項で拙が云ひ度かつた事、御分り戴けただらうか。

 と云ひますか、夜中に道に迷つて此處に來たら嫌だなあ、若も脱輪したら泣き度く成つて仕舞ますよ。

 因に、西荒川ダムからは五百米程下流の地點であります。

 では、不取敢橋の全景から見て行きます。
 如何でありますか、中々に興味深い物件では無いでせうか。

 何と無く假橋では無いのかと思ふのでありますが、さうでは無いと云ふ主張なのか、土管が等間隔に竝んでゐたり、混凝土の打方も丁寧な感じがし無いでも無いであります。
 では改て左岸側の橋臺と云ふか何と云ふか、と云ふ部分でありますが、或る程度の石積の先から土管が竝び始まつて居ります。

 混凝土の厚みも結構在る樣であります。
 右岸上流側は之、如何捉へれば良いのでせう、元々斯うだつたのか、其時々の流量の變化で自然に斯う成つたのか、何か若かして若干壞れてゐると云ふ事なのでせうか。
 同下流側は、又何と云ひますか、可也年季の入つた大きな土嚢が積んで在る状態でありました。
矢張流出して崩れてゐる、と捉へるのが正解なのかも知れません。

 して、詳細でありますが、此道自體が元々鑛山の爲に開發されたのでは無いのかな、と云ふ處であります。

 明治四二年の地圖では未だ道自體の表記が無く、昭和四年の地圖で釜之澤鑛山と共に描かれてゐるのが初めて見て取れます。
此方依りも少し下流側には明治四二年の地圖でも道の表記は在るのでありますが、多分に車兩(主に馬車で、後年に成り自動車だと思ひますが)を通すには些か地形的にも場所的にも不便だつた爲、 比較的渡河し易い此方の部分に廣い道を通したのでは無いかなと推察致します。

 でありますので、本格的な橋を建造する迄も無く、假橋の樣な儘で事足りてゐたので、鑛山の衰退と共に新たに架橋し直す事も無く、此儘の姿で現存してゐるのでは無いかなと推察した次第であります。

 因に竣功年でありますが、冩眞を撮つてゐましたら丁度町役場の職員の方が車で通り掛りましたので色々訊いて見たのでありますが、 西荒川ダムが出來た昭和四二、三年頃には既に出來てゐたさうでありまして、詳細は不明との事でありました。
後日航空寫眞で確認して見ようと思ひましても、何かはつきりとは分りませんでして、多分昭和卅八年の寫眞では現在の姿とは違ふなと云ふ感じでありましたから、大凡昭和四十年前後頃、と云ふ處だと思はれます。

 まあ何れにしましても、結構興味深い背景の有る物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

追記

 平成廿七年九月の關東、東北豪雨から二箇月程經過した十一月十七日、此方の橋の如何云ふ状況に成つてゐるのかと思ひ再訪して見た處、斯樣な有樣でありました。

 最早原型を留めてゐるとは云ひ難い状況でありますのは明白であります。
 之は、最大で卅サンチ以上中央部は陷沒してゐるのでは無いでせうか。

 是でも通行可能な状態にだけは復舊させた後でありますので、其實際の慘状たるや想像出來ません。
 此な大きい混凝土の塊、何處から來たのでせう。
 すつかり景色が變つて仕舞ました。

 此處では人的災害が無かつたのが何依りの幸ひだつたと思ひます。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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