鹽谷町大宮-上平 名稱不明橋

2673年 6月 4日 探訪

 栃木縣道六三號線指定には未だ成つて居りますが、其役目はもうバイパス側に讓つて仕舞ひ、舊道部分に成つた場所であります。
地圖で見ますと、もう既に盲腸線の樣な状態でありますので、此處の縣道指定つて今後如何成つて仕舞ふのでせうか。

 して、最初は沒にする豫定だつたのでありますが、此寫眞を良く見てみますと、結構面白い物件ぢや無いかと思ひ掲載する事に致しました。

 左右の欄干が平行では無く、而も路盤の途中から左側が擴幅された部分だと云ふのが舖裝の罅から見て取れます。

 不取敢、此方左岸側から見て行きます。
 最初は丸柱に成つた古ガアドレイルの規格橋だなと思つただであります。

 して、上の寫眞の説明の續きに成るのでありますが、右側手前の親柱は廢されて居りまして、當然何處にも橋名は書かれて居りませんでした。
でありますので、斯樣な適當な寫眞に成つたのでありますが、之ならも少し良く見れば良かつたなと今更乍に思つてゐる次第であります。

 其で、さう、此擴幅部分でありますが、ガアドレイルや丸柱、+螺旋等からしまして、多分昭和四四年とか四五年頃の物では無いかなと推察致します。

 では右岸側、唯一殘された親柱を見て見ませう。
 昭和三十一年三月竣功。

 まあ、當然之だけしか分ら無いのでありますが、斜め架橋とか、銘板の部分を窪ませる意匠とか、結構力作だなと云ふ事であります。

 因に横からの桁等の寫眞が無いのは、街中でありますし行けさうな處は廢墟でもありますので、 念の爲に不法侵入と誰かに見られたらアレでありますので、自肅したので無いと云ふ譯であります。
 ね。
之で堂々と行けるかと云ひますと、拙には無理であります。

 と云ふか、假にあの混凝土の柵の外側を行くにしても、アレに手を掛けて體重を少し預けても大丈夫なのか不安でありますし、川に落ちる心配も有りますから、ねえ。

 併し、親柱と高欄が以外と離れて居ります。

 其と、高欄の柱が何氣に凝つた意匠に成つてゐるのが素敵であります。
 まあ高欄自體は至つて普通の、此年代に良く在る上下二本の混凝土製管の物であります。

 して、奧の左岸側、大宮地區側はきつと擴幅の時に現在の姿にされた、若しくは何か打當つて手荒く破壞されたから現在の姿に成つたのでせうね。

 唯殘念なのありますが、元の橋名が分ればもつと良かつたと云ふ事であります。

 嗚呼さうさう、河川名は「松川」で正解の樣でありますね。
其處で一つ疑問なのでありますが、では現在の松川つて通稱「松川の吐出し」迄で良いのでせうか。
正確な市ノ堀用水と松川の違ひを知り度いのでありますが、本當の處如何なのでありますかね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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