鹽谷町佐貫 觀音橋

2674年 9月 30日 探訪

 鬼怒川に架る栃木縣道七七號線の橋であります。

 其名前は、近くの岩肌に彫られた觀音像が由來であります。
他にも、御覽の樣に岩肌が露出した美しい河川敷が見所かと思ひます。

 併し御覽の樣に途中で形式が變はると云ふ特徴的な此橋も、間も無く架替られ撤去されて仕舞ますので、其前に寫眞に收めようと思ひ、今囘の探訪と相成りました。
 左岸側は三連のワアレントラスであります。
高欄部分も交換される事無く、當時物其儘かと思はれます。

 と云ふ事は、此形の高欄が附てゐる橋は此觀音橋と同年代と思つて良いと云ふ事でありますかね。

 架替理由でありますが、老朽化と、比較的交通量の多い縣道乍中央線の無い幅員の狹さから擦違ひ不可能な事等が其理由の樣であります。

 では、此方左岸側から見て行きます。
 観音橋。

 嗚呼、良い意匠の親柱であります。
結構痛みが激しいでありますが。

 併し此方の親柱も撤去されて仕舞のでせうか。
折角なので烏山の 【宮境橋跡】 の樣に保存されると良いなと思ふのでありますが。
 其袂には竣功年度を示す銘板が取附られて居りました。

 昭和卅年五月竣功なのでありますね。
三月に拘る時代では無かつたと云ふ事でせうか。

 して、此處で一寸疑問だつたのでありますが、此觀音橋、途中で形式が違く成つてゐると云ふ事で、災害復舊の爲だとは聞いてゐたのでありますが、 其が此方のトラス部分の方だと思つてゐたのであります。
勿論、航空寫眞とか見比べられる以前には、でありますが。

 でもさう致しますと、さう、橋全體の完成が昭和卅年で、トラス部分は違ふのでは無いかなと思ひまして、一寸確認して見る事にした次第であります。

 と、其前に、昭和卅年は未だ部分的に舊字體を使用してゐるのでありますね。呵呵
 と云ふ事で、崖縁で怖かつたのでありますが、幸ひな事に親柱の直近くに工事銘板が附られて居りましたので、何とか手を伸ばして寫眞に收める事が出來ました。

 さうしまし度ら、昭和廿九年十一月五日完成の樣であります。

 何か思つてゐたのと違ふと云ひますか、皆の記憶違ひなのか、トラス部分が元からの部分だつたのでありますね。
 鬼怒川。

 此壞れ具合が又、綺麗に見えて仕舞ます。

 奧に見えますのは、風見發電所を初め、市ノ堀用水や草川、西鬼怒川等々の灌漑用水の爲の取水口、佐貫頭首工であります。
其御蔭で鬼怒川の水量は手荒く少く成つてゐる樣にも見受けられて仕舞ます。

 と云ひますか之、銘板後年に成つてから交換されて居りますよね。

 當時の銘板つて如何云ふ姿だつたのでせう。

 では、右岸側へ向ひます。
 何か、結構簡單な造りに感じます。
 因に、トラス部分の排水桝は此んなに大きいのであります。
 して、橋のほぼ中央部に待避所が設けられて居りまして、此處で擦違が出來るのでありますが、近年の交通量には役不足だつた事は想像に難く無いであります。
 では、後年に成つてから作られた側、普通の混凝土桁橋の擴幅部分であります。

 計測はしてゐ無いので分りませんが、多分片側で五十サンチ程は廣がつてゐるのでは無いでせうか。
さうして、幅員五米以上を確保して、此部分での擦違を可能にしたのだと思はれます。
 排水桝は此程度の大きさであります。

 此形は、結構彼方此方で見掛ますかね。
 高欄はまあ、如何にも年代物だなあと云ふ印象の意匠であります。

 とは云へ、何處と無く昭和廿年代迄の樣な雰圍氣も感じると云ひますか、其な感じでありますかね。
 して、何故か左側は混凝土で塗潰された作りに成つて居ります。
多分、自動車が打當つた時の強度確保の爲で、トラス部分を守る爲の措置では無いかなあと想像致します。

 と云ひますか、混凝土の質感からしまして、後年に成つてからの措置なのでせうか。
唯一此處だけでありますし。

 まさか、自動車が打當つて壞れたので斯う云ふ具合に作り直したのでせうかね。

 併しまあ、彼の岩全體に觀音像が彫られてゐたのでありますが、今ではすつかり消えて仕舞つて居りますね。
拙が初て見た昭和四九年だつたか五十年頃でも、可也風化が進んで居り、じつくりと見てやつと「嗚呼、さうだ」と分つた位でありましたから、 もう仕方が無い事なのかも知れません。
 右岸側からの眺めであります。

 併し左岸側、此方から見ますと渡り切つた直後に九十度に曲ると云ふ、今では完全に惡線形でありますね。

 と云ひますか、元々の渡河地點に架橋し無かつたのは、河川幅の關係でだつたのでせうか。
確に此處が一番狹いと云へば狹い感じではありますが。

 其と、如何せなら廣い儘で此方側は架替て仕舞ば良かつたらうにと思ふのでありますが、其處迄の交通量に成るとは思は無かつたと云ふ事だつたのでありますかね。

 親柱の意匠は左岸側と一緒でありますね。
 観音橋。

 此方の銘板は當時物でありますね。

 良く見れば縁取もされて居りまして、凝つた意匠の銘板かと思ひます。
 して、其傍には竣功年度を示す工事銘板が附られて居りました。

 昭和卅七年でありますね。

 さう考へますと、鐡管を使用した欄干では早い部類なのかも知れませんし、も少し後年に成つてから増える逆傾斜意匠の走りなのか、 と云ふ部分も感じられて仕舞のでありますが、其は想像力が豐か過ぎるでせうか。呵呵

 其と、縣が新字體に成つてゐるのも興味深いであります。
 鬼怒川。

 えゝと、此等の親柱、架替後に新設されたのでせうか。
其共、元からの物で、工事銘板のみを後から附たと云ふ事、は餘り考へられませんよね。

 まあ、普通でありましたら兩岸に附はし無いでせうから、後から此方側に増設したと考へるのが普通でありますよね。

 因に此方側、詳しい人に訊きました處、元々は木橋だつたさうであります。

と云ふ事で、竣功當初の本來の姿は、途中迄がトラスで、殘りは木橋だつたさうであります。

 多分でありますが、本流の部分はトラスで徑間を稼ぎ、河川敷の部分は木橋でも大丈夫だらうと踏んで作つたものの、 矢張増水に因り流出した爲に、混凝土桁橋で作り直した、と云ふ事の樣であります。

 唯、其當時としましては、さう云ふ作りの橋が何本かは作られてゐたと云ふ事でありますので、若かしましたら、途中で幅員也形式が變はつてゐる橋は、 其當時の名殘なのかも知れません。

 併し嗚呼、特徴的で素敵な橋でありましたのに、撤去が決定してゐるのは殘念でありますが仕方が無い事でありますか、ね。
是が一應の最後の記念に、と云ふ感じで冩眞に收めて見ました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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