鹽谷町玉生-熊野木 梍橋

2673年 6月 3日 探訪

 此方は多分有名物件だらうからと暫く探索はし無いでゐたのでありますが、意外や意外、インタアネツト上で餘見掛無い物件でありましたので、 白石橋を遣つた後に撮つた次第であります。

 此方、前囘の宮橋から日光北街道を東進する事約一キロ、現在の國道四六一號に當る舊道、曾ての日光北街道であります。
其交通の要所である街道が荒川を渡河する爲の橋でありますので、中央線も引ける斯樣に立派な物が架けられたのだと思はれます。

 併し其雰圍氣から古いのだらうなとは思つてゐたのでありますが、いやはや、結構な掘出物でありました。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 荒川。

 此舊字體の草冠をパソコンで普通に打度いのでありますが、無理なのが殘念であります。
 殘念乍此方は當時物の親柱が失はれて居ります。

 して、其後に出來たであらう代替物なのでありますが、肝心の「何か」が消失してゐます。
多分此方に「梍橋」と書かれてゐた銘板が在つたのでは無いかと推察するのであります。

 唯、之今ではバイパス側に「新梍橋」が架つて其表記に成つてゐるから良いでありますが、 若かして「皁莢」と云ふ書方をしてゐたとかと云ふ事は無い、のでせうね。
さう云ふ事は臺帖にきちんと載つてゐるでせうから。

 因に、「代替」の讀みは「だいたい」。
 此微妙な弧を描く橋こそ、昔乍の橋らしい橋と云ふ感じで好きであります。

 併し高欄、結構な年代物の樣な橋でありますのに上下二本の混凝土管を使つてゐるのが意外と云ひますか、 結構傳統的な素材、若くは當時最先端の意匠と云ふか技術だつたのでせうか。
 流石に橋脚には痛みが現れて居ります。

 て、あれ、桁も橋脚も全て繋がつてゐる樣に見え無くも無いのでありますが、高欄の柱を見ますと分れて居りますね。

 斯う云ふのつて何構造と云ふのでせうか。
一見すると桁と橋脚は全て繋がつてゐる樣にも見えますし。

 では左岸側へ移ります。
 橋臺は斯う云ふ感じであります。

 親柱の部分が下迄續いてゐるのが頑丈さうでありますね。
右岸側は一つ消失して居りますが。

 如何でも良いのでありますが、川面の部分、圓く窪んでゐるのは何の爲の穴だつたのでせうか。
まさか先代橋、木橋の名殘とかと云ふ譯では無いでありますよね。
 昭和十五年十二月竣功。

 をゝ、矢張年代物でありましたか。

 併しさう致しますと、高欄は昭和卅年代的であつたりするのは、最先端的技術を導入したと云ふ事なのでせうか。
其と親柱、意匠的に結構凝つてゐると思ひます。

 併し戰前は別に年度末に竣功と云ふ概念が無いのでありますかね。
でありましたら、其こそ人間として自然な事だと思ひますが。

 戰後の方が人間も何事も變でありますよ。

併しアレですね、昭和十年代の橋つて結構殘つてゐる物なのでありますね。
 さいかちはし。

 最初"い"が一寸アレでありましたので、檢索して少々知恵を拜借致しました。

 併し親柱、此滑らかな曲線、手荒く手間掛つてゐるのでは無いでせうか。
當然の樣に型枠を取つた其儘では無く、丁寧に仕上てゐる樣な感じでありますものね。
 全體で見ましても、年代的に考へれば此川幅で三徑間の桁橋つて、手荒く長い方では無いでせうか。
普通此年代でありましたら、四徑間乃五徑間でも不思議では無い位では無いかと思ふのであります。

 其と、中央部の桁と兩側の桁の長さが違ふ樣でありますから、單成るT字桁とは違ひ、何か獨特な構造をしてゐるのでは無いかなと思ひました。

 さうして見ますと、中々に面白い物件が殘つてゐて呉れてゐるのだなと思つた次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る