鹽原町鹽原 鹽湧橋

2675年 6月 16日 探訪

 現在は指定を外されて居りますが、鹽原の温泉街を通る道が國道四百號線だつた頃には栃木縣道五六號線だつた橋であります。

 昭和卅六年、鹽原赤瀧矢板線として認定される遙か以前、明治四十年の地圖にも記載されてゐる事から、若かしますと其以前からも架橋されてゐた場所なのかも知れません。

 親柱に街燈が立つてゐたり、渡つた先が廢業してゐる旅館だつたりと中々に趣の有る橋でありますが、不取敢まあ、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。
 箒川。

 中々重厚な感じの親柱であります。

 おや、此方にも元々は街燈が立つてゐた樣な痕が御坐います。
何時頃撤去されたのでせうか。

 まさか3.11以降と云ふ事では有りますまい。呵呵
 塩湧橋。

 此方の親柱は良い状態でありますね。
 して、此方素晴しいのは、ガアドレイル以前の、之、何て呼べば良いのでせう、車止で良いのかな、が殘つてゐる事であります。

 因に、此處に在るのは公衆便所と指湯であります。
 親柱の近くに排水桝が在りました。

 排水目皿は丸い鑄物で結構大型であります。
 高欄の意匠的には昭和卅年代から四十年代前半的ではあります。

 して、全て混凝土製なのでありますが、斯う云ふ塗分が成されて居りましたので、最初は四角い鐡管が使はれてゐるのかと思ひました。
 混凝土の地肌の儘でも良かつたのでは無いかと思ひましたが、まあ其處は觀光地でありますから、御化粧も大切でありますね。

 其は措いとゐて、花、綺麗であります。

 して、高欄は橋の中央で分割されて居りました。

 では右岸側へ參ります。
 昭和三十二年八月竣功。

 をゝ、結構な年代でありますね。
と成れば、ガアドレイル以前の物が路肩に据附られてゐるのも納得であります。

 あ、此方にも街燈の跡が在りますね。
 しおわきばし。
て、見え無いでありますね。呵呵

 唯、此方の銘板面白いのは、正假名遣ひの名殘で、「し」が舊字體の變態假名、と云ふか語頭の場合の「し」には此方を遣ふので正解なのか、 「志」に近い字を遣つてゐるのであります。
云ふなれば、心の部分が三つの點に成つてゐるのであります。

 だつたらもういつその事全て正假名で「しほわきばし」で良いのでは無かつたのか、共思つて仕舞ました。

 併し之、街燈も當時物でせうか。
"らしい"感じで素敵であります。

 きつと當時は四本全てでほんのりと温泉街を照してゐた事でせう。
 して、此方側にも混凝土製の轉落防止柵(で良いのかな)が殘つて居ります。
 勿論此方側にも。

 と云ひますか、渡河した途端に急に折てゐると云ふ、見事な線形が古つぽくて素敵であります。

 して、橋は鋼製拱橋でありますね。
 其で以て、ずうつとガアドレイルの内側に殘つてゐるのだと思ひましたら、何か途中から違ふ、依り以前の物の樣な、少し華奢な感じの物に變つてゐるのであります。

 之つて間違ひ無く昭和卅二年依り以前の物でありますよね。
 而も此混凝土製の柱、良く見ますと針金で何かが括り附られてゐたのを外した形跡が見られるのであります。

 之つて鎖か何かが附てゐたと云ふ事、でありますかね。

 と成りますと、自動車交通を前提にしてゐる依りも以前の物、と云ふ事で良いのでせうか。

 何だかわくわくして來ましたよ。
 而もですね、之が結構長く續いて立つてゐるのでありますよ。

 と云ふ事で、愈々川面の方へ降りて見ませうか。
 左岸側の河川敷に降りて來ました。

 をゝ、溪谷に佇む拱橋、綺麗であります。

 でも何か手前右岸側に氣に成る物が在りますね。
 此は舊橋の遺構、でありますよね。

 丁度混凝土製の轉落防止柵の種類が變はつたのが舊橋が在つた處からでありましたので、現在の物に架替て閉鎖した爲、と云ふのも納得であります。

 併し之はアレで對岸、道路近くに橋臺が見えますから、先代橋も拱橋だつたと云ふのでせうか。
 扨、鹽湧橋で畫像檢索すると出て來るのでありますが、此橋臺等を使つた先代の木橋の繪葉書の畫像が色々と見られました。
其はもう立派な頬杖橋なのでありますが、其と同時に驚きますのは、橋から手前、畫像で云ひますと橋臺から左手の部分、此處も元々は棧橋と云ふか、 別個の木橋だつたと云ふ事であります。

 其が後年に成つて石積で護岸が作られ埋立られ、現在の路盤の形に成つてゐると云ひますか、さう云ふ變遷を經てゐるのが分つたのが收穫でありました。

 寫眞でも微かに見えますが、彼の高さ迄積上げての勞力は手荒く大變だつた事でせう。

 併し檢索結果で出て來る、先代、先々代橋の立派な姿には尚一層の驚きでありますが。

 因に、其何方も詳しい年代は不明であります。
 して、此方左岸側には橋臺とか殘つてゐ無いのかなと思ひ見上げました處、今は閉まつてゐる小さな觀光案内所が建つて居りました。
 一應下には橋脚、で良いのかな、其も殘つて居りました。
 と、まあ、先代橋は措いとゐて現在の橋でありますが、此方の橋臺は斯う云ふ具合であります。

 其周りの石積、石の切方が先代の部分の玉石積とは違ふのが見て取れます。
 支承部分。

 斯う云ふピンで荷重を支へてゐるとか、凄いであります。
良くまあ折無いなあ、と。
 下から見上げて見ました。

 如何云ふ形式なのか拙は分りませんが、上路拱橋と云ふ事だけは分ります。ました。
 建物が鎭坐した左岸側橋臺部分でありますが、道路から結構出張つて居りますので、之は左右の長さを統一する爲だつたと云ふ事でせうか。

 目地を混凝土で埋てゐると云ふ事は、大正時代以降の物、と云ふ事で良いのでありますかね。
木造橋の耐用年數を、例へば廿五年程度と致しますと、昭和初期に架橋されてゐたと云ふ事に成るのだと思ひますが。
 さうして、觀光案内所の前の部分に、斯う云ふ滑り止め加工がされてゐるのでありますが、之、若かして架橋當時の名殘なのでせうか。
何と無く、戰後の混凝土舖裝の坂道部分で見掛るのとは形も大きさも違ひますし、何依り不揃な處から氣に成つて撮影して見た次第であります。

 とは云へ、水道の檢針器の邊りに後附感が無い事から、案内所が出來てからの物でありますね。
多分。

 いやあ併し、徒歩でゆつくり見て良かつたと思へる物件でありました。
何しろ、先代橋の遺構が其儘殘つてゐると云ふのが素晴しかつたでありますから。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る