鹽原町金澤 堰場橋

2674年 5月 20日 探訪

 栃木縣道卅號線の舊鹽原町金澤、箒川に架る橋であります。

 御覽の樣に橋の手前で急に曲る事や、幅員の狹さ等からバイパス化計畫が有り、新橋建設に伴ひ既設橋梁は撤去の豫定との事でありますので見に來ました。

 一寸改修工事中でありましたが、現場の方に斷りを入れて撮影しました。

 と云ふか拙、何か斯う云ふ具合に頃合惡い事が多々有るのでありますが、まあ、まあ良いでせう。呵呵

 と云ふ事で、右岸側から見て行きます。
 箒川。

 簡素乍も特徴を持たせようとした意匠でありますね。
結構打當つてアレかと思ひましたが、意外にも原型を保つてゐると思ひました。

 何か横、下の方に何か銘板らしき物が附られて居ります。
 施工者の銘板でありましたか。

 併し之は中々に貴重であります。
阿久津町とは可也の年代物であります。

 阿久津町とは、昭和廿八年に町制施行で出來、昭和卅三年に高根澤町に成る迄の間の町名でありますから、結構珍しいでありますし、 同時にさう云ふ年代物だなと思つた次第であります。
 桁も珍しいであります。

 普通の三徑間混凝土桁橋では無く、三徑間連續RCゲルバア桁と云ふさうであります。
單成る連續桁では無く、中間の桁が兩側の桁の上に載ると云ふか吊る形の形式だとか、一寸知恵袋から知識を得ました。

 多分、今は無き國道二九三號線舊道の那珂川に架つてゐた新那珂橋と同樣な形式と云ふ事でありますかね。

 併し高欄の痛みも激しくて、鐡管の太さも仕上げも色々であります。 混凝土が卷かれた部分が當時物だと思ひますが、結構少いでありますね。呵呵

 橋脚部分も岩が當つてゐるのでせう、結構激しい痛みと見受られます。
 堰場橋。

 幅員五.五米ださうでありますから、此痛みも納得であります。

 何か、最新の部分に補修された高欄を見ますと、十分に今でも通じる意匠に思へますから不思議であります。

 して、舖裝は可也盛られてゐると思はれます。
 何かもう、丸で高欄の見本市の樣な状態であります。

 多分でありますが、惡線形の他幅員の狹窄さも有る上に、冬場の凍結とかで滑つて打當ると云ふ複合技が效いてゐるのでせうか。

 多分、排水桝の部分に車輪が嵌つて苦戰した人も居さうな氣が致します。

 では、左岸側へ移動致します。
 勿論横の歩道橋部分を渡つてゐるのでありますが、之、此方が無ければ地獄でありましたね。

 間違無く人身事故多發だつたと思ひます。

 併し、此處迄橋脚の周りに石、と云ふ依り岩が在ると云ふ事は、増水時に流れて來てゐると云ふ事でありますよね。

 擦れた跡が多い乍もまあ、良く橋脚も耐へてゐると思ひます。
 昭和二八年三月竣功。

 えゝと、阿久津町に成るのは四月一日からなのでありますが、其を見越してだつた樣でありますね。

 數字の書方も特徴的と云へますでせうか。
「十」を入れずに漢數字表記でありますし、且つ「廿」と云ふ表記もせずと云ふ邊が、戰後だなあと云ふ處でせうか。

 と書いてゐる此文章がアレとかと云ふのは措いときまして。呵呵
 せきばゞし。

 「ヽ」が片假名で「ゝ」が平假名、「々」は云ふに不及でありますね。

 斯う云ふ表記も結構貴重だと思ふのでありますが、保存し度り等は考へられてゐるのかなと心配して仕舞ます。  あ、排水桝が埋められて居りますね、此處。

 併し、高欄と何本かの柱が新しい事が手荒く氣に成ります。
 排水桝でありますが、結構な大きさであります。

 後何れ程の壽命か分りませんが、不取敢現役時代に寫眞に收める事が出來て良かつたであります。

 併し、近くに大きい堰が在ると云ふ事でも無いのでありますが、堰場とは如何云ふ意味なのでせうか。
其共、鹽原ダムの直下流側だから、なのでありまかね、

 以上、御附合有難う御坐いました。

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