矢板市土屋-大田原市薄葉 舊、舊々野嵜橋跡

2673年 8月 27日 探訪

 此方矢板市土屋の國道四號、箒川に架る野嵜橋の袂であります。

 以前からずつと氣に成つてゐたのであります、何故上線側の敷地は廣く取られた部分が在るのかと。

 處が、舊四號の絡で航空寫眞を眺めて居りましたら、氣附て仕舞つたのであります。
現在の線形とは違ふと云ふ事に。

 して、も少し色々な年代の航空寫眞を見比べてゐましたら、如何やら昭和五○-五一年頃に架替られてゐるではありませんか。

 と云ふ事は、此廣い敷地は舊線形の跡。 見に行か無い理由等無いので、早速見て來たと云ふ譯であります。

 歩道の外側、既に塀と歩道の間が廣がつてゐるのが御分かり戴ける事と思ひます。
 歩道側から見た景色であります。

 別段道路が合流する譯でも無いのに、此用地の確保具合でありますから、當然不思議に思ふのも自然でありますよね。

 晝寢場所でも無いでせうに。
偶に自動車を停て寢てゐる人も居りますが。
 さうして今囘、自轉車で來ましたので初めて知る事實。
歩道の外側にも斯う云ふ具合で道が存在してゐたと云ふ事であります。

 でも、舊線形だと思ふ割には舖裝が成されてゐ無い等、一寸不自然の部分が御坐いますので、多分此處は工事に伴ふ迂囘路と云ふか、 待避路的な使はれ方をした跡でせうか。
 少し進みました處、現道依り先に下り始める頃から舖裝が現れました。

 舖裝の繼目も確認出來る事から、此處からが舊路盤と云ふ事だらうと思ひます。
 いざ右岸側の渡河地點、橋臺部分へ。

 と思ひましたら氣象觀測所らしき物が鎭坐して居りました。
 では現在の野嵜橋から橋臺部分を望みます。

 と思つたのでありますが、夏眞盛り。
蔦が手荒く繁殖して居りまして、全く不明であります。

 嗚呼、でも何と無くさうだと云うは御分り戴けるでせうか。

 其直ぐ左隣にも橋臺が在るつぽいのでありますが、如何でせうか。
 して、何か川面には痕跡無いのかと下を見ましたら在りました、舊野嵜橋の橋脚跡。

 昭和廿二年の航空寫眞では其姿を確認出來ますので戰前物件だとは思ふのでありますが、一體何時頃の物件だつたのでせう。

 良く見ますと、一應上流側は尖頭型に成つてゐる樣に見えますので、大正末期や昭和初期頃迄の物件でせうか。

 唯、其頃の物件故でせうが歩道部分が無かつた爲か然程の交通量を想定してゐた爲か、些か小さい橋脚だつたのかな、と云ふ印象であります。
 此直眞横に架つてゐたのでありますから、もつと何か痕跡見附度いでありますよね。
 と思ひましたら、大田原側にも橋脚跡一つ發見であります。

 現橋とは本當に近接してゐたのでありますね。
尤も、大田原市内方面から合流する道と國鐡自體が近接してゐるのでありますから、用地的に餘裕が取無いので仕方が無い處でせうが。
 して、左岸側、大田原側の橋臺部分が見えて來ました。

 うん、何か此方は二つ竝んでゐる樣にはつきりと見えますね。
 では先づ此方、舊橋側の橋臺であります。

 此方は全て混凝土造と成つてゐる樣でありまして、今でもしつかりと其姿を保つてゐる樣であります。

 きつと護岸としても十分に機能してゐる事でせう。
 さうして此方、迫出した方を良く見て見ますと、何と石積の橋臺でありました。

 と云ふ事は、舊々橋の橋臺と云ふ事でありますよね。

 と云ふ事で、古地圖を確認して見ました處、明治四二年の地圖では舊々橋の位置で渡河して居りますが、此處迄立派な橋の描かれ方では無く、 昭和四年の地圖で初めて舊々橋の位置に長い橋が架けられてゐる表記でありますから、此方、其間に架橋された物件と云ふ事で間違ひ無いと思はれます。

 さうして、橋脚跡等が分ら無いのは、多分木橋で、橋脚も木製だつたからでは無いでせうか。

 して、舊橋でありますが、昭和廿二年では確實に此方、手前の位置でありますし、尖頭型の橋脚と云ふ事から、舊々橋と然程竣功年代は變ら無いと思ふのであります。

 と云ふ事は、何か水害で流出して仕舞つた爲、早々に混凝土で架替に成つた、と云ふ事なのでは無いでせうか。
 斯うして元の路盤だつた位置から右岸側を望みますと、成程、森の切目と云ふか廻込具合と高臺と成る位置關係から、舊、舊々橋の位置關係も納得出來ました。

 何と無く其々の橋臺の位置も分りますしね。

 其と此方、貨物車の在る位置に舖裝が爲されてゐるのも舊道の名殘だらうと思はれます。

 此處野嵜橋、餘り誰も注目してゐ無い樣でありますが、埋れた歴史的物件だと思ひますので、一見の價値は有ると思ひます。

 但し季節は選ぶべきだとは思ひますがね。呵呵

 【大田原市薄葉 東北本線 舊野嵜跨線橋跡】に續く。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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