那須町梓 山嵜橋

2678年 4月 3日 探訪

 福島縣棚倉町へと拔てゐる栃木縣道六十號線。
伊王野村道路元標から栃木縣道廿八號線、六十號線と進む事約五キロ程、梓川に架るのが此方山嵜橋であります。

 ぱつと見で分る通り、舊線形部分を利用しつつの擴幅で片側が附足された橋でありますが、殘された側が明かに如何にもな年代と分る造であります。

 因に擴幅は航空冩眞で確認致しますと、昭和四四年以降五十年迄には完了して居りました。

 扨、と云ふ事で、元からの橋は如何云ふ物なのか、不取敢此方右岸側からじつくりと見て行き度いと思ひます。
 梓川。

 斜橋と云ふのが良く分る、一應親柱なのでありますかね、であります。

 銘板は如何にも昭和四十年代後半の物と云ふ感じで、字體も定番的な感じであります。
 因に、横から見ますと擴幅側は牀版橋の樣であります。

 して、ガアドレイル高欄の意匠からしまして、昭和四八年以降の物と云ふ感じであります。
 對しまして舊線形側でありますが、如何にも昭和卅年代と云ふべき混凝土管を二本使用しました意匠であります。

 其と、斯うして見ますと道路の勾配を一定にする樣に結構路盤が盛上られて居ります。
 山崎橋。

 銘版の材質は鐵でありますかね、さう云ふ點で如何にも昭和廿年代から卅年代前半的特徴だと思ふのでありますが、斯う云ふ具合に幅の廣い銘版は初て見た氣が致します。

 では左岸側へ移動致します。
 梓川。

 横幅の廣い銘版に見合ふ、手荒く立派な字體であります。
 此方を横から見ました處、拙の大好きな混凝土T字桁でありました。

 其と、親柱が橋臺側に附てゐる譯では無く、高欄の端の柱が兼てゐるのでありますね。
さう云ふ點では結構進歩的な設計と云ふべきでせうか。
 山崎橋。

 扨、元からの部分の竣功年でありますが、之がさつぱり分りませんでした。
航空冩眞も參考に成るだらうかと思つて見たのでありますが、昭和廿二年と卅八年の違ひが分ら無いと云ふ感じでありまして、まあ、多分其間に架けられてゐるのだとは思ふのでありますが、 本當、其だけしか云へ無い状況であります。

 まあ、次に記します下松倉橋とほぼ同年代だらうなと云ふ感じなのでありますが、さうだと云ひ切れ無いのも又事實であります。

 でもまあ、中々に特徴を備へた良い物件が見られました。

 併し、昭和五十年頃には此幅員で中央線が引れて居りましたのに、今と成つては中央線が無いと云ふのも何かアレと云ふか、此幅員では中央線が引け無いと云ふ感じなのでせうね。

 嗚呼、因に橋名の由來は地區名からでありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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