眞岡市田町 靜風橋

2675年 10月 6日 探訪

 此方は眞岡市の中心部、曾ての眞岡城、現在の城山公園の直傍、行屋川(ギヤウヤガハ)に架る橋であります。

 何か、若かして此方は川と云ふ依り城の堀ぢや無いのかと思へるのでありますが、其處ははつきりとした記述が何處にも無い樣でありますので、まあ、如何でも良いでありますか、ね。
城、と云ひますか人類の歴史何て以下省略。

 扨、と云ふ事で此方右岸側から見て行きますが、御覽の通り此方側の親柱には銘板が御坐いませんので、左岸側へ移動致します。呵呵
 静風橋。

 此具合から致しますと、銘板は交換されてゐるのでは無いでせうか。

 親柱、と云ふ依り、桁の上に作られて居りますが、斯う云ふ場合も親柱と呼んでも良いのでせうか。
 靜風橋。

 兩側で同じ銘板と云ふのも珍しいでありますが、若かして扱ひ的には道路橋と云ふ依りは人道橋と云ふ感じなのでせうか。
 高欄は鐵管を二本使用しました意匠であります。

 此感じから致しますと、昭和卅年代から四十年前後頃、と云ふ感じでせうか。
 横から見ますと一徑間のスラブ形式混凝土桁橋、と思ひましたら、奧まつた處に橋脚が在りますね。

 一體如何云ふ事なのでせう。
 して、嗚呼、成程、中央から左右で違ふ桁の樣でありますね。

 と云ふ事は、下流側の方が先に架けられ、上流側は後年に成り擴幅された、と云ふ事でせうか。
 而も之、尖頭型でありますよ。
 橋臺を見ますと、成程、矢張左右で違ひますね。

 其に、此方手前側の方、橋脚もさうでありますが、上の方に混凝土を盛られた形跡が御坐いますので、元々はT字桁だつた物を、多分擴幅の頃か何かの時に、 現在のスラブ形式の物に架替てゐるのでは無いでせうか。

 因に、航空冩眞で變遷を紐解いて見ますと、昭和廿三年以降昭和卅五年迄の間に、先づ橋脚附の方が架橋され、昭和四五年以降四九年迄の間に擴幅されてゐる樣であります。

 さうでありましたら、年代的に片側は元々T字桁でも納得であります。
但し何故にスラブ形式に交換したのか、銘板の周圍の崩れ方等、疑問に成る部分も有るのでありますが。

 まあ、其でも尖頭型の橋脚が見られましたので、拙的には滿足出來た物件でありました。

 因に、先代橋はも少し下流側に架つてゐた樣でありますが、當然の如く其痕跡は御坐いませんでした。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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